[愛が分からない!]

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 どうして僕なのか。そう問いかけたことがあるいつに日だろう。お互いのぎこちなさがなくなりかけた時期だったはず。多分、春の手前、春休みごろだ。
「いきなりどうしたの」
「なんか、聞きたくなって」
 最初のほうはお互いぎこちなさでいっぱいいっぱいだった。それがほぐれてきて、やっと聞けた。そういえば、街のどこかだった気がする。
「好きだったから、じゃ理由にならないかな?」
 顔を赤らめて言う。好きだった、その部分だけ声量が落ちて、そこが可愛らしい。
「んー、例えば何処とか」
「クラスに私と雰囲気が似た人がいて、目で追ってたら、かな。最初からどことかそういうのはなかったよ」
「そういうものなんだ」
「うん、そういうもの」
 微笑んだままストローを咥えてアイスコーヒーを啜る。長くなった髪の毛が入れないように、片手で髪を押さえる仕草も心に少しだけ響く。それから気付く。
 ああ、この人の一挙一動に凄く心が動かされていると。
 思い出した。その店は、あの店だ。浩平と僕の行きつけの店。最初は僕が常連で、彼女と来るようになって、それから浩平が来るようになったんだっけ。
「特別な関係、か。何していいのか分からないや」
 小さく呟く。すると彼女は笑って言った。
「私も」
 遊びに行くのも友達同士でやるわけだし、何を以って特別か。よく分からない。手を繋げばいいのか、キスをすればいいのか、抱きしめればいいのか、その先に行けばいいのか。本当に良く分からない。
「ここのコーヒー、美味しいね」
「うん、僕のお気に入り」
「そっか。それじゃ、私もお気に入り」
 屈託ない笑顔。宝石のように輝いていた。いつもいつも、彼女は笑っていたのだ。
 だから、急に話が変わるときが分かりやすい。
「あのね、啓介君」
「なに?」
「私ね、その……告白、したでしょ?」
 告白、の部分だけトーンが下がる。恥ずかしいのだろう。そこがイジらしい。
「あのね、その時は、私が本気かどうか迷ってたの」
「迷ってた?」
「うん。でもね、こう思ったの。出来たら本気、出来なかったらそうじゃないって」
「うん」
「ほら、私こういう性格だから。なかなか覚悟が出来なくて。でも、そんな私が覚悟できれば、って思って」
「――凄い」
「そ、そうかな」
 顔を更に紅く染め上げて俯いた。意味もなく、中身のないアイスコーヒーを啜っていた。
「そういう考え方、僕は好きだな」
「……ありがとう」
 そうだ。その後になって、自分が彼女に向かって初めて好きって単語を使った瞬間って気付いたんだ。遅すぎたような気もする。そこまで、僕も迷っていたのだろうか。
 僕達は、似ていたのだから。

 須藤さんと別れて家路を辿る。街灯で伸びる影は薄気味悪く、前だけを向いて歩く。空気の色は、灰色。くすんだ、夜の闇が靄で包まれた、灰色。不安になる、灰色。
 十数分で自宅にたどり着くと、いつもの日課を適度にこなし、眠りに着いた。寝苦しいこともなく、すんなりとした寝入りだった。

 終業式が次の日に迫った日の昼休み。やはり僕はいつものようにいつもの場所へ向かっていた。手に昼食を持って階段を登る。屋上への踊り場。机椅子の物置。お気に入りの場所。
 いつもは無人のそこに、今日は人影が見えた。屋上へと続く扉から覗く太陽が逆光で上手く見えない。ただ、その人だけがすっぽりと黒い形を作っていた。
 誰だかわからないけれど、戻ったほうがいいだろう。先客に場所を譲るように、階段を登っていた足を止めて身体を反転させる。
「あ」
 後頭部に声が突き刺さる。か細い声で、やっとあの人影が女の子であることがわかった。けれど、立ち止まる勇気もなく、聞こえないフリをして僕は階段を早足で降りた。
「……」
 僕を捕らえ続ける視線がただ只管に痛かった。
 雑踏のような廊下を抜けて自分のクラスに戻る。ここで昼食を食べるのは久しぶりだった。
「遅かったな」
「……なんでいるの?」
 僕の席には浩平が座って昼食を食べていた。多分、今日は自作の弁当なのだろう。お世辞にも綺麗とはいえないおかずが弁当箱の中でひしめき合っていた。
「そら、お前とメシを食いたかったからな」
「はぁ、もういいよ」
 何がいいのやら、と呟く浩平の前に座る。本来僕の席ではないものの、今はいないようなので椅子を拝借した。そんな様子をクラスの面子は慣れたものの、今だ好奇の線を持つ目で視ていた。
「で、本当にどうしたの?」
 僕は無視して口を開く。
「ああ。実は――って、今日はゲテパンじゃなかったのな」
「今日はあんこの気分」
 あんぱんを浩平の前で遊ばせた。
「ふーん」
「で、実は、何なのさ」
「ああ、そうそう」
 思い出したように喋り出す。つい数秒前のことを忘れてしまう友人の頭の中身を少々疑ってしまった。
「まあ、こういうわけで、勉強を教えて欲しいわけだ」
「どういうわけなのか知りたいところだけど敢えて何も言わないよ。でも、それはいつものことだろ?」
 僕が言うと浩平は若干蔑んだような顔をした。
「は、これだから成績上位者は違うねぇ」
「いきなり『こういうわけ』で分かったらエスパーだと心底思うよ」
「ちっちっち」
 舌打ちと同時に指を振る友人。思わず冷たい視線で見てしまった。
「分かってないねぇ。いい、明日はなんなんだい?」
「明日は木曜日だね」
「……天然?」
「心外だ」
「んじゃ、真剣に答えること」
「はいはい」
「なんだー、その仕方ないなぁって顔は」
「分かってるじゃん」
「な、なんだとー」
 いきり立って、立ち上がった浩平に釣られて僕も立ち上がった。
「やるのか?」
「……ま、それはさて置き、明日は?」
 見事に流された。浩平が座り、僕も再び椅子に戻るといつの間にか集まっていた視線が霧散した。
「明日は終業式」
「そう、明日は終業式。そうしたらどうなる?」
「冬休みだね」
「そう、冬休み。イッツ、ウィンターバケーション」
「わざわざ英語にする必要はあるの?」
「いや、まったく」
 だったらするなよ、という突っ込みは飲み込んだ。この横井浩平という人物は意味もないことが好きなのだ。それが分かってしまっている僕は、それなりにこいつと長い時間一緒にいたことになる。
「で、そのウィンターバケーションがどうしたわけ?」
「いいか、ジャパンのハイスクールにおけるウィンターバケーションは年末年始を挟んでいるわけだ」
「まあね」
「と言うことは、学校ももちろん閉まる」
「当然だね」
「と言うことは?」
「学校に来ない」
 さも当たり前の答えを返す。段々と浩平の言わんとすることが分かってきたが、敢えてそれは避けてみる。
「……あのなぁ、啓介。お前は休みの間何をするつもりだ」
「うーん、寝て、起きて、御飯食べて、勉強して、寝る、かな」
「あー、これはまた健康的で模範的受験生なこと」
「受験生だからね」
「……啓介さぁ」
「何?」
「さっきから思うわけだが、遊んでるだろ」
「分かった?」
「ああ。大体、お前が俺をおちょくろうとするときは大体語尾が『ね』になるんだよ」
「あら、よく観察していること」
「嬉かないね。で、ちゃんと答えて」
「はいはい。学校が開かないから勉強を教えてもらう機会がないんだ。冬休み中どこかで勉強をしたいんだけど、いいかな? ってところでしょ」
「ま、まあそうだな。図星過ぎて気持ち悪いけど」
 浩平は明らかに引いていた。僕が言うのは何だけど、浩平は直球で来ない代わりに分かりやすいくらいの回り道をするので図星は簡単に突けるのだ。
「で、どう?」
「僕は大丈夫だよ」
 というか、いつも通り。休日に電話が来て、呼び出されることは稀じゃない。つい先週も僕は日曜日に浩平に呼び出されて勉強を教えていた。
「で、それについてなんだが、あの店も年末年始は休業するんだって」
「あ、そうか」
 いつも呼び出されていたのは、あの喫茶店だった。あの店が使えないとなると――どうしようか。
「図書館じゃ流石に無理だろ?」
「まあ、うん」
 一度二人で行ったはいいが、声を出すのが躊躇われる程の静寂が鎮座するあの空間で勉強を教えるのは出来なかった。受け答えが少量ならまだしも、僕と浩平だと量が多いので周りからの視線が痛く、三十分もしないでそそくさと退散したのはいい思い出だ。それに、あの空気は苦手だ。
「となると、選択肢が限られるわけか」
 呟くように漏らすと、浩平は静かに頷いた。
 結局昼休みの間では適当な場所が思いつかなかった。明日にもう一度会ってから決めるようにしてその日の昼休みは終わった。僕の手にはまだあんぱんが残っていた。
 放課後。何を思ったのか知らないけれど、僕はまたお気に入りの場所に向かっていた。ここ最近ではほぼ毎日行っていた故に寂しくなったのだろうか。自分の感情に答えは出ないものの、そこに行かなければ物足りない感じだけが心に渦巻いていたので更々止まる気もない。
 下校する生徒の波に逆らいつつ階段を登る。終業式前日のせいか、心なしか教室に残っている人が多い。日常とは少しばかり違う光景を視界の端に収めつつ三階から四階――屋上へ続くそこに足を踏み入れた。
 響き渡る雑踏の声。でも、そこではフィルターが掛けられたかのようにぼんやりとしか伝わってこない。まるで異世界から聞こえてくるような錯覚。ほんの少しだけ現実離れした感覚。それが僕が気に入っている理由の一つだ。
 踊り場に差し込む光。やはり昼休みとは日の入り方が違う。そう思いつつお気に入りのあの場所を見上げた。
「あ」
「あ」
 声が重なる。
 そこには先客がいた。背格好や姿、恐らくは昼休みと同一人物。あの時は逆行で分からなかったものの、今ははっきりと見えた。見えてしまった。
 二人とも知り合い、と言うにはおこがましい。かといって友達かと言えばそうではない。そうなれなかった成れの果て。僕はそう思ってる。
 知らない人であったら二秒で引き返すことが可能であろうに、それが出来ない。今の僕の足は凍りついたかのように言うことを聞かず、踊り場の床に張り付いてしまっていた。
「えっと……」
 上から声が降りてくる。今にも鳴きそうな震えた声だった。
「ごめん」
 たった三文字を残して彼女は階段を駆け下りた。僕の真横を通り過ぎた時、その顔はやはり僕の思っていた通りの人だった。
 追いかけることも呼び止めることも出来ず、ただその光景を見つめていた。自分の視界から完全に彼女の姿が消える。
「はぁ……」
 自己嫌悪を含ませたため息を吐く。そのままへたり込んだ。
「全く……」
 お気に入りの場所を見つめる気にもならず、俯いた。
「聖域じゃないってのに」
 まだまだ弱い僕は、伝えたい言葉を一人で溢す事しか出来なかった。
最悪だった。

 人に知られたくない。そんなものは誰にだってある。ただ、僕達の関係は、人に知らせるべきモノじゃなかっただけだった。
 地味な僕と地味な彼女の組み合わせ。お試し期間のような関係。分からないまま付き合うことを教えるのは、なんとなく躊躇われたのだ。だから僕達は約束した。
「ちゃんとした関係になるまで、みんなには内緒」
 西日の差し込む階段上。そう約束したのはあの場所だった。机椅子を二セット分取り出して、向かい合う。
 机に溜まっていた埃は取り払ってある。ここは、僕のお気に入りの場所だったから。脇に積まれた物のうち、綺麗なものだけを選んで設置しておいたのだ。
 殆ど皆無と言うに等しいほど、誰も寄り付くことのない場所。僕らが会うのにこれほど最適な場所はなかった。だから、僕は迷わずここを選んだ。
「いい場所だね」
 絹よりもやわらかい笑顔を浮かべる。僕自身が褒められたような気がした。恥ずかしさがこみ上げてきたので、それを見せないように窓の外に顔を向けた。そろそろ沈みだす太陽。もう直ぐ夜になる。その前に学校を出なくちゃ。
「明日、終業式だね」
「うん」
 何故か腰を上げる気にはならない。もう少しだけ、もう少しだけ。そう思う自分がいた。
「後藤君は、冬休み、どうする?」
「うーん……勉強、かな」
「あはは、真面目だね」
「そうでもないんだけどね」
「そっちはどうするの?」
「うーん……部屋でごろごろ、かな」
「王道だ」
 視線を彼女に戻して笑った。はにかむような顔を見て、思い立つ。
「ね、明日デートしようか」
「え?」
 驚きに目を丸くする。僕は恥ずかしさを押し殺して続けた。
「何か予定あるの?」
「う、ううん、全然。全然、ないよ」
「そっか。じゃあ明日、デート。まぁ、デートって程のものじゃいけど、どこか遊びに行こう」
「う、うん!」

 校門を出てから携帯を開くとメールが二通届いていた。一通は浩平から。明日どうしようかという内容だった。夜にでも返信しておけばいいだろう。そう思ってもう一通のメールを見る。
 須藤さんからだった。話したいことがあるから電話しろと書いてある。なんだろうか。多少訝しがりながらもメモリに登録された須藤さんの電話番号を呼び出し、通話ボタンを押下した。
 十回の呼び出し音が鳴って、通じないかもと諦めかけた瞬間に電話が繋がった。
「もしもし?」
「あー、おー、ケースケ?」
「うん、そうだけど。話したいことって何?」
 考えたら須藤さんとは学校で話はするけど、こうして電話もメールも殆どしたことがない。
「うん、それなんだけどさー、今何処にいる?」
「校門出たところだよ」
「あ、そうなんだ。じゃあさ、校門前で待っててくれる? 五分くらいで着くから」
「う、うん、いいけど」
「ありがと!」
 感謝の言葉を残して須藤さんは電話を切った。
 僕は通話記録が写る画面をしばらく見つめ、携帯を仕舞って大人しく須藤さんを待った。五分、と言っていたが果たして何分待つことになるやら。吹き荒ぶ冬の風が身体の芯まで冷やすので、温かいコーヒーが飲みたくなった。
 果たして僕の願望は現実のものになった。
「へー、こんな店があったんだ」
 いつもの店で僕と須藤さん、さらにもう一名がいつもの席に収まっていた。僕は座るだけでいつものメニューが出てくるので、須藤さんたちだけが注文をしていた。
 須藤さんは約束より二分ほど遅れて校門前にやってきた。彼女は一人の女生徒を引き連れていた。開口一番に場所を移してゆっくり話し合いたい、と須藤さんが言ったので僕がこの店に連れてきたのだ。
「……」
 マスターは無言で、そして音もなく注文されたメニューを差し出す。
「あれ、ケースケは頼んでないのに出てくるの?」
「まあ、常連だから」
「へぇ、なるほどね。あ、ありがとうございます」
 目の前にカフェオレを置かれて慌ててお辞儀をする。
「で、話って何?」
 場所まで移したのだ。これは何かあるのだろう。というか、僕のことだ。十中八九で。何故なら、須藤さんの隣――直井千陽がそれを証明している。
 直井さんは僕と視線を合わせようとせずに、ただずっと俯いている。会ったときからそうだ。そして、彼女こそ、あの場所で会った人だった。
「あ、そうそう。この子紹介するね。千陽――直井千陽って言うんだけど」
「うん、知ってる」
「そうだと思った」
 その言葉で悟った。須藤さんは知っている。僕たちの関係を、恐らく彼女の視点で。一体いつからか、とも思ったが、それは不毛な問だった。意味がない。
「あ、そんなに視線を尖らせなくてもいいから。そういうことじゃないし」
「あ、ああ、ごめん」
 自然と目が変わっていたようだ。注意しないと。
「ま、それは関係なしとはいいきれはしないんだけどね、それはあくまでおまけだし」
「おまけ?」
「ま、本題からいこうか」
 くいっとカフェオレを煽る須藤さん。その仕草は様になっていたが、次の瞬間には舌を火傷して可愛らしい醜態を晒していた。
「あつつ、猫舌なの忘れてたー」
 いい加減本題とやらに入らないので僕はコーヒーをゆっくりと口に含んだ。視線を直井さんに向けると、彼女は俯いたままブレンドを飲んでいた。
 しばらくして舌の痛みが取れた須藤さんが話し出した。
「明日から冬休みでしょ?」
「そうだね」
 このやり取りは今日で二回目だ。
「で、冬休み明けたらセンター試験まで数週間なのよ」
「うん、勉強しないとね」
「そういうわけなのよ!」
 ぐっと身を乗り出した。僕と須藤さんの距離が十センチは縮まったんじゃないだろうか。
「さて、そこの後藤啓介君、期末テストは何位だったかね?」
「えっと……」
 記憶の海を探る。別に順位が欲しくて勉強しているわけじゃないので、覚えていない。一桁だったのは覚えているのだが。
「ま、まあ一桁だったかな」
 自信なく答えると、須藤さんは顔を真剣にして更に身を乗り出した。
「なんと! 良いとは思ってたけど、それほどとは思わなかった。うれしい誤算だね」
 この流れは、分かる。分かりすぎる。この展開は今日の昼ごろに悪友としたはずだ。
「勉強教えろって?」
 先手を打つと、須藤さんの顔が途端に崩れた。
「そうそうそうそう! そういうことなのだよ」
「えっと、先約があるんだけど」
「誰?」
「……浩平」
「あー、あいつね。えせ不良」
 やはりここでも不良の烙印が押されているようだった。可哀相な浩平。
「別に不良なわけじゃないし、真面目な奴だよ」
「そうなのかねぇ」
「……多分だけど、須藤さんよりは成績いいし」
「え、マジ?」
 目を点にして驚く。
「うん。期末は確か六十位くらいだったよ」
「うわ、私よりも良いし……」
 途端に項垂れる。前から思っていたけど、随分と感情表現が豊かな人だ。直ぐに態度と顔に出る。きっと、隠し事も出来ないタイプなのだろう。
「うーむ、先約が、ねぇ」
「そゆこと、交渉決裂ってね」
 ぐいっとコーヒーを飲み下す。胃の中で暴れるように熱を出した。
「でも、ねぇ」
 須藤さんが怪しげな笑みを漏らす。にたり、と擬音が出そうだ。
「でも、なに?」
「こちらの方が面白いんではなくて?」
「く」
 その口ぶりは、全てを知っていると言っていた。面白い、というのも須藤さんだけで、僕にとっては一つも面白くない。直井さんだってそうだろう。
「……いつから知ってた?」
「ふふふ、いつからでしょうねぇ?」
 業とらしく窓の外に視線を向ける。この人、僕を完全におちょくるつもりだ。だけど、僕は屈するつもりは毛頭ない。徹底抗戦だ。
「まあ、僕は面白いってだけで勉強する意欲のない人を教えるつもりはないよ」
「じゃあ、意欲が私じゃなくて千陽にあったとしたら、教えてくれるってことだよね」
 しまった、墓穴だった。
「え、あ、ああ」
 動揺を隠せないまま返事をする。どうにかして断る口実を作らなくては。必死の思いで模索し、ある結論を出す。隙を見て、携帯を取り出し、テーブルの下でメールを打つ。
「ね、千陽。意欲は有るんだよね?」
「え、あ」
 返答に戸惑っている。よし、まだまだだ。時間を稼がなくては。
「ほら、直井さんが返事に困ってる」
 言いながら、手元の携帯に返信があった。さりげなく見る。本文から察するにかなりの奇跡。指を加速させて返信する。
「ちょ、千陽?」
 須藤さんは直井さんに顔を近づけてなにやらしゃべっている。小さな声ながらも、単語の断片が耳に届く。
 僕はそれを拾うよりも、救世主が現れることを願っていた。早く来い、横井浩平。女子の相談が早く終わるか、奴がくるか。いや、前者なら時間を稼げばいいだけの話だ。
「……ってことなのよ?」
「え、でも……」
「だから……」
 相談は終わりそうもない。この賭け、僕の勝ちだ。そう思った瞬間、確信へと変わる音が店内に響いた。
 ほぼ無音ともいえる空間を貫く音はドアベル。歓喜した気持ちを無理やり押さえつけてゆっくりと見る。
「よお、取り込み中か?」
 浩平は片手を上げて挨拶をしつつこちらに来た。今までの中で一番浩平に助けられたと思った。
「ん、そんなとこ」
「で、その羨ましい状況は啓介を取り合う二人の女と女?」
 断りもなく僕の横に座る。そのせいで僕が奥に移動しなければならず、須藤さんから直井さんの対面になった。
「まさか」
 寧ろ取り合うのは浩平だ、とは言わなかった。
「あれ、不良?」
「どーも、不良でーす」
「これがねぇ……」
 須藤さんは値踏みするような目つきで浩平を見る。如何なる欠点も見逃しませんといった感じだ。
「しかし、感じ悪いよ。そういきなりじとりと見つめてもらっちゃ」
「あら、失礼したわね」
 須藤さんは目を戻す。一通り見たのか、言われたからなのか、僕には分からなかった。
「で、今どんな状況なのかね?」
「うん。実はね――」
 僕は今の状況を掻い摘んで説明する。二人の紹介も兼ねて説明すると浩平は深く頷いた。
「なるほどね。啓介を取り合う二人の男と女、か」
「そこ、変なこと言わない」
 須藤さんが突っ込む。相手が有名人とはいえ、知らない人だ。突っ込むことが出来る須藤さんが不思議だ。
「まあ、俺としちゃ不愉快極まりない話だ。理由も同じで先約があるというのに居座られるのはいけ好かない」
 言いすぎだ、浩平。
「と言ってもだな、俺は別に毎日啓介と会いたいって訳じゃない。ホモでもゲイでもバイでもないからな」
 その言葉でお嬢さん二人めっさ引いてますよ。
「っつー訳でだ。ここは大人しく和平交渉しようじゃないか」
「和平交渉?」
「そ。俺は啓介に二日か三日に一度会えるくらいでいい。残りの日にちはそっちで使えばいいと思うわけだ」
「え? 僕の意見は?」
 思いっきり無視されてますよね?
「啓介はどうせ勉強しかしないんだろーが」
「そりゃそーだ」
 って、須藤さんにまで言われた。
「というわけで、それでいい?」
「私は構わないけど、千陽は?」
「え、あ、私も大丈夫」
 消え入るような声で直井さんが言う。相変わらずな人だ。
「んじゃ日取りを決めるか」
「はいはい」
 浩平は胸ポケットから生徒手帳をとりだした。対しての須藤さんはぶ厚くなった自身の手帳を取り出す。どうしてあんなに厚くなるのかと疑問に思う。
 二人は仲良く日取りを決めているので、僕と直井さんがすっかり取り残されてしまった。
「えっと、元気?」
「え、あ、うん」
 終了。いや、これで会話が終了だなんて。一瞬悲しくも思うが、それも当然かと思い直す。正味、気まずい関係なのだ。
「なんでかなぁ」
 小さく漏らして窓の外を見つめる。路地に面したこの店からは空を拝むことも出来ない。コンクリートの壁と、フェンス。それに散乱したいくつかのゴミが見えるだけ。気晴らしにもならない。
 今のこの状況は僕自身が招いたものだ。それは重々承知している。だからこそ納得がいかないというか。どうしてここにいるのだろうか。その疑問だけが残る。どうして僕がいるというこの場に。悲しいような、辛いような。そんな顔を俯きで隠してまで。

 僕らは順調といえば順調だ。そりゃ、彼氏彼女の関係としては生温い事この上ないだろうけど。それでも僕は、満足だ。
「今度の休みどうする?」
 いつもの喫茶店。駅前通から一本路地を入ったところにある、僕達のいつもの店。無口なマスターに代わり、ドアベルと静かな空気が出迎えてくれる。僕の好きな店だ。
「うーん……」
 彼女は困った顔をしながらアイスコーヒーと氷で満たされたグラスをストローでかき混ぜる。
「どうしよっか」
 はにかみながら疑問で疑問に返される。
 最近は二人の時間が増えた気がする。気がするだけで、実質増えたかと言われれば手を挙げざるを得ない。
 じゃあ、どうしてそんな気がするのか。それは密度が増したからだと思う。最初の頃のようにどう接してよいのかと慌てふためくこともなくなり、お互いに自然体になれつつある。
「今年から受験だね」
 今は春休み。呑気にここでお茶していても、僕達は四月からは立派に受験生。
「うん」
 さっきまでの話題は何処へやら。ころころとそれが姿を変えるのは僕達の特徴だと思う。
「後藤君は成績いいよね」
「ま、まあある程度」
 僕は成績を隠すようにしていたから、漠然とした情報しか渡していない。どうしてかといわれれば、他人から恨み妬みを買うのは御免だから。僕の詳しい成績は、浩平しか知らないと思う。言いふらしてなければ。
「じゃあさ、勉強見てもらおうかな」
「僕でよければ」
「ありがとう」
 浮かべる笑み。僕は段々と好きになっていた。彼女のことが。まだ自信を持って言えるほどじゃないけど。それでも、心の中に確かに出来上がっていた。

 結局、勉強見てあげなかったな。そう思うと、残酷だ。この状況は。一体何の考えがあるのだろうか。
「直井さん」
「え?」
 何でいるの、と口を開きかけた。けど、声が出ない。酷な言葉は、紡げない。僕にとって、彼女にとって。
「……何でもない」
 それで精一杯だった。
「何が『何でもない』なんだか」
 脇から声が出た。浩平だ。
「日取り決まったよ」
「……そう」
「で、問題の場所なんだけどな」
「……」
 日取り。場所。僕は浩平に、別の日は前の二人に教えるわけか。
「啓介、聞いてるか?」
「ううん、聞いてない」
「ショック」
「……ああ、そうか」
「何が?」
「ああ、そうかそうか。全く、酷だなぁ。僕も」
 いや、寧ろ保身か。不利な状況を打破したいと思っただけだ。
「お、おい、啓介?」
「ケースケ?」
「あ、ごめん。ちょっと考えてた」
「おいおい、こんな時に――」
「あのさ、勉強場所は――うん、学校でいいね」
「学校? 空いてるの?」
「受験生用に解放しているよ。流石に土日は空いてないけど」
「でも、うん、それが一番かな」
 須藤さんが賛成する。
「でさ、みんな一緒で良いんじゃない? 場所が一緒なら」
「あ、そうか」
 納得、というように浩平は頷く。
「私はいいけど……千陽は?」
「え、あ、うん。私も、大丈夫」
「それじゃ、それで決定。詳しいことは明日にでも決めようか」
「あ、ああ」
 浩平は急に僕が仕切りだしたことで呆気に取られている。気の抜けた返事がその証拠だ。
「それじゃ、今日はこれで終了。帰ろうか」
 僕が席を立つと、遅れてみんなも立ち上がる。カウンターに五百円玉を置き、ドアベルを高らかに鳴らせて外に出た。
 自室に着くと、僕は思い切り息を吐き出した。それこそ、肺を空っぽにするかのように。それくらい、息が詰まっていた。途中から思考をほとんど閉鎖していたせいもあって、ベッドに転がった頃には様々な思いが交錯していた。
「……これで、良かったのか」
 本当なら断っておくべきだった。けれど、断れなかった。ああ、もう、女々しい。
「一度終わった関係なのに」
 そう、僕達の関係はすでに終わっている。僕と彼女の関係。友達以上、恋人未満。いや、それ以上だった。少なくとも、僕の気持ちは最初のときよりはずっと彼女に向いていた。それは隠しようもない。
「はぁ」
 再び大きなため息。白い息が上がったのを見て、初めて暖房を点けていない事に気付いた。亀のようにゆっくりとした動きでエアコンのリモコンを掴み、スイッチを入れる。鈍い駆動音を立てながらそれは動き出した。
「どうしようか」
 どうしようもない。自問自答。全く意味がない。
「はぁ、酷だよ、全く」
 何度目かしらないため息。酷過ぎる、全く。一度終わった関係が顔を突き合わせてお勉強か? 笑えない。
 あれから一度も顔を合わせていないというのに、全く。酷なんだ。

 三年になると、僕等はクラスが分かれてしまった。僕は国立理系、彼女は私立文系なのだから仕方ない。自然と顔を合わせないことが少しばかり怖かったが言えはしない。
 受験学年になったからといって、僕らの関係は変わらない。変えないでいた、という方が正しい気持ちもある。なんと言うか、段々彼女に惹かれていく自分が嬉しくもあり恥ずかしくもある。
 夏休み前の休日。いつものように僕等はいつもの喫茶店でいつものメニューを楽しんでいた。
「そろそろ夏休みかぁ」
「そうだね」
 ふと呟いた言葉に相槌が返ってくる。
「でも今年は受験があるし、遊びには行けそうもないね」
「うーん、そうだね」
 彼女は少しだけ残念そうな表情を浮かべた。僅かだけの動きだったので、彼女は覚悟していたのだろう。
「まぁ、いつも通りか」
 僕等は学校で殆ど二人きりにならない。最初の約束の通りに。だから、こうして二人になるのは得てして休日だけだった。
「あはは、そうだね」
 小さく笑いを浮かべる。その笑顔を見るだけで、どこか幸せな気分になった。僕は引く事の出来ないところまで歩み入ってしまった様だ。
「……」
 不意に、よぎる。
 僕は確かに惹かれている。好きか嫌いかだったら、間違いなく前者。それは自信を持って言える。けれど、彼女のように、はっきりと言えるだろうか。
 ――分からない。
 だから結局、僕は彼女に「好き」とは言えなかった。自信がないのだ。好きになっている自信が。好きだという自信が。
「どうしたの?」
「ん、なんでもない」
 少し怖くなった。今のまま関係を続けていていいのだろうか、と。こんなに不甲斐ない自分と覚悟を持った彼女が、このまま続けてゴールはあるのだろうか。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
 その日から、僕は彼女に会うことを止めた。

 あれから約半年。正確には五ヶ月とちょっとくらい。文字通り、僕は彼女と一度も会うことはなった。元から週末の予定は僕から話していたし、夏休みも挟んだおかげで本当に会わなかった。受験でお互いに忙しくなっていたし、会えないのはほぼ当然のことだった。
 メールがたまに来るけど、忙しいと返していたら次第に来なくなった。
 だから、自然消滅。
 これで良いのだ自分に言い聞かせたのは何ヶ月前だろうか。まさかこんなことになるとは思いもしなかった。
「本当に、何なんだ」
 愚痴を零すが、何も返ってこない。エアコンが唸る無機質な音だけが耳に響いていた。

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(C)啓  無断転載、引用はご遠慮願います。