[狼少女]

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 私が書くのは全てが本物とは言えない。実体験も、空想の出来事も、全てが混ざっている。つまり、私が書くものの半分――いや、半分以上が嘘の塊なのだ。
 言い変えて、私は嘘を書く。私が書きつけるのは自分の嘘なのだ。そんなことを思うと自分を騙しているような錯覚に陥る。そんな時は大丈夫、とココロの中でそっと呟く。
 私は私に偽り無い。こんなふうに書き付けている私は、本当に自分に正直だ。時々、自分で書いたのを見て驚くぐらいに素直。そこが、そんなところが少し好きだ。
 自分に正直に生きることは難しいと思う。現代社会で言いたいことを言って生きられるほど甘くは無い。だから人は少なからず自分を押し殺して生きていると思う。少なくとも、私はそうだ。
 だから、自分に正直になれる所があると物凄く落ち着く。自分を止めるっていうのはストレスが溜まるから、ガス抜きが出来るところは必要だ。抑圧された力はエネルギーを蓄えている。いつかそれが爆発しないうちにその力を抜くのだ。
 そんなわけで、私は文を書くことでガス抜きをしている。私は安い風船のように空気が入りすぎるとすぐに割れてしまうけれど、その代わりしぼむのも凄く早い。
 小説、といったらおこがましいかもしれない。本業の人からしたら稚拙で添削箇所が多くて推敲が足りないと思うだろう。だけどそれでいい。
 私が求めているのは完成された作品ではない。あくまで、物語。誰がどんなことを思ってそうなったか。心の内にあるものを吐き出すようにしてそれを描くことが出来れば満足。  面白さなんて求めない。ただただ、内に押し込めたエネルギーを開放できるだけの物語が出来ればいいのだ。
 もはやライフワークと化した作業を終えて筆記用具を置く。我ながら汚いと思う。まあ、それでもいい。それが私自身なのだ。そうしたのが私自身なのだ。それなら、そのまま受け入れるのが正しいのだろう。
 ある本で言っていた。

「私達は本気で嘘を吐く職業なのよ。
あなたの嘘はお金を出してまで見る価値のある嘘かしら」

 そう。職業として成り立っている現在、表現者はすでにほら吹きなのだ。そしてそれを愉しむ人はそのほらを愉しむ。
 それは愉快だ。
 本気は人を楽しませることは出来ない。それは誰もが分かっていることだ。本気と言うのは得てして本気で受け止められ深刻になる。
 それは自己の露出だ。
 私は裸になってまじまじと見られても平気なほど心は強くない。でも、いつかは強くなりたいから、「まだ」強くない。

 狼少年は村中を駆け巡る。
「狼が来たぞ!」
 少年が叫ぶと村人は家から顔を出して彼を見る。それを確認して彼は再び叫ぶ。
「狼が来たぞ!」
 そうするとどうだろうか。村人は大笑いしたのだ。そして少年はその光景を見て、安心したように微笑む。

 願わくは。願わくは、だ。
 私はいつか、そんな少年になってみたいと思う。だけど、こうも思った。
 結局、そう成れば成る程、裸に成るのは余計怖くなってしまう。
 少年の嘘になれた村人は、あの日、本物の狼に食べられてしまうのだ。

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