[猫と傘と]

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 雨が降っている。
 この薄汚れた大地に、汚染された空気に晒された水蒸気が冷えて出来た最悪の雨粒が。
 悪循環、と言う人がいるかもしれないがそれは違うのだろうと思う。
 一つが汚れていれば全てを汚し、逆に全てがきれいならば汚れはしない。
 これなら負に偏った循環というのだろうか、全くの悪循環ではないのだと思うのだ。
 ただ極端なだけだ。
 空は黒く、そして低く水滴を地にいる僕等の上に降り注ぐ。
 朝から続くそれが傘を叩く音を聞きながら僕は歩いていた。
 明日からは梅雨明けで晴れるらしい。
 家への道。
 路側帯もない、その道で。
 古びたコンクリートの電柱の足元で。
 まるで漫画のように捨てられた猫を見つけた。
 ――拾ってください
 そう書かれたダンボールには子猫が一匹。
 茶と白が入り混じった模様らしいのだが、跳ねた泥が薄灰色に変色してこびりついている。
 敷かれた毛布には水が溜まりその役目を果たしていない。
 その中で、その猫は、ただ空を見つめていた。
 ただ濡らされるままに。
 ただ吹かれるままに。
 抗うことも知らないのか、時折目を閉じて雨をかわす程度。
 しかし視線は一度たりともずれない。
 まるで生きることへの執着を無くした猫だった。
 空に召されるのを待つかのような猫は他の誰の目にも留まらずに居る。
 この僕を除いて。
 いつ捨てられたかは判断しかねるが、ダンボールに雨を凌ぐようにはなにもされていないので約一日このままというところだろうか。
 目の前で立ち尽くした僕は視界に入っているのだろうが一つも視線をずらす事のないその瞳に何を見たのだろうか。
 何故だか。
 僕は、その猫を拾っていた。

 ◆

 夕方、家。
 拾った猫はとりあえず風呂に入れた。
 あの雨の中ずっと外にいたのだ。
 身体を温めなければならないだろう。
 持ち帰るために抱き上げたときにはぞっとするほどに冷たくなっていた。
 それに毛皮にも付いた汚れを落とさなければならない。
 ま、妥当な判断であり正当な判断だ。
 猫は大人しいのか、それとも反抗する気力も無いのか、黙って風呂桶のなかで湯に浸かっていた。
 シャンプーの泡を湯で流したらすぐにバスタオルで包んで水を取る。
 家の中で自己脱水処理でもされたらたまらない。
 あらかた水分が取れたら移動せずにドライヤーで乾燥。
 茶色と白の模様がはっきりと見え雑種であることを主張していた。
 猫はこれらの作業中やはり一声も鳴かなかった。
 まるで人形のように。
 後は適当に飯――というか子猫なのでミルクで代用――を食べ(飲む)させ、ダンボールにいらない毛布を突っ込んでそこで寝かせる。
 自分も敷きっぱなしの煎餅に横になる。
 最近干していないので自分の汗の臭いしかしないそこ。
 急に太陽の臭いが恋しくなった。
 雨が止んだら、外に放そう。
 そして布団も干そう。
 そう思って蛍光灯のコードを引いた。
 部屋は暗くなり音も無くなる。
 聞こえてくるのは雨が屋根を叩く音だけだ。
 僕はそれを子守唄にして知らず眠った。
 夢の中で、雨が降っていたような気がした。

 ◆

 朝、自宅。
 天気は快晴。
 道路には空を映す鏡のような水溜りが未だ点々と残っているが、殆ど乾いているようなので、夜半には止んだのだろう。
 猫は寝かされるがままの姿……ではなく、きちんと寝返りを打っていた。
 人形みたいな猫だったが生きているみたいだ。
 朝食を食べて出かける準備をする。
 猫はどうするかと思案したが、面倒くさいのでダンボールごと庭に放置することにする。
 季節は初夏。今日から梅雨明けだ。
 今年は例年似ない猛暑。
 しかし、外に出ても気温で死んでしまうようなこともないだろうと判断してのことだ。
 いつでも出られるようにダンボールの一辺を切り、ドアのようにした。
 帰るなら帰れ、戻るなら戻れ。
 そういうことだ。
 だが、どうも一晩寝かせただけで情が移っているらしい。
 戻ることも考えている点で自分が馬鹿らしく感じ、苦笑した。

 ◆

 午前、駅前。
 僕はいつも電車を利用しているので自然と駅前も通る。
 駅前と言うこともあり賑わう人ごみの中、異分子がそこにあった。
 日傘のつもりか知らないが雨傘を広げ立っている少女。
 遠目に見ても異分子だと、そこにいてはいけないと思えた。
 僕と彼女の距離は数メートル。
 人五人を挟んで擦れ違う。
 それでも。
「どうして――助けたのですか」
 それでも、その呟くような声が、脳の真ん中まで響いた。
 一瞬だけ足が止まる。
 数メートルの距離があってもまるで頭の中から声を出されたかのように。
 耳元で呟かれたかのように、はっきりと。
 それにはっとして振り返るとそこには傘の少女はおらず、目の前をいやな顔をして擦れ違う人たちが見えただけだった。
 誰かが吹かしたタバコの臭いが急に鼻を突いた。
 あの声は、僕の脳で何度も何度も反芻した。

 ◆

 夕方、家。
 あの少女の言葉は僕の思考を捕らえることに成功したようで、気付いたら夕方で家の目の前にいた。
 それまでの記憶が一切ないが無事に帰れていることに感謝する。
 そして彼女はやはり異分子であると実感した。
 庭に回って主の居なくなったであろうダンボールを回収する。
 が、主はそこで寝ていた。
 毛布が多少土で汚れていることから一旦は外に出たのだろう。
 それでもこいつは戻ってきた。
 一晩世話したことでいい気になって、ここに厄介になろうという魂胆か。
「今日も牛乳でいいか?」
 答えなくてもよい質問を投げ掛けていた。
 回答者は小さく「にぃ」と答えた。
 どうも起きていたらしい。
 初めての声だが、何とも思わなかった。
 ただ、ほっとしただけだった。

 ◆

 夜、自宅。
 我が家の新しき住人を祝って僕は缶ビール、ゲストは牛乳というコンビで祝杯を挙げた。
 人間が増えたわけでもないのに一人暮らしでは味わえなかった味が感じ取れた。
 それもこいつのおかげ。
 そう思うことにする。
 ちなみにこの猫の部屋は縁側の一等地に設置した。
 あの仮住まいを普通に縁側に置いただけだが。
 家ではそこ以上に日当たりのいい場所は知らない。
 僕に躾は出来ない(する気もない)し、いつ帰ってもいいのでそこが一番適当と判断したのだ。
 それに日陰もある。
 雨が降ったら凌げる場所もある。
 付かず離れずの関係にはもってこいだと思った。
 所詮は猫。
 本来自由と思われている生き物。
 恩も知らずに揚々と放浪する生き物だ。
 考えることもなく、ただ自由に。
 規律や秩序に縛られることもない。
 そう思うとこいつがちょっと妬ましく思えた。
 この日は虫の鳴き声が子守唄だった。

 朝。
 今日も晴れ。
 雲もないし、一日良い天気なのだろう。
 縁側では猫が気持ちよさそうに寝ていた。
 起こすのもはばかれるので皿にミルクを注いで出かけた。
 その際、「行って来ます」と言ってみた。
 返事はやはり無く、家の中に自分の声が空しく響いた。

 ◆

 午前、駅前。
 果たしてそこに異分子はいた。
 昨日に続く快晴の中、一人雨傘を差す少女。
 通り行く人々はそれを気にすることも無く我の道を歩く。
 当然、僕も我の道を行く。
 今度は一メートルもない距離で擦れ違う。
 少女は一瞬こっちに視線を向けて、呟く。
「どうして助けたのですか」
 僕は一瞬立ち止まって、答える。
「言ってる意味がわからない」
 そして歩いていった。
 何故返事をしたのか。
 それさえもわからない。
 自分のことが分からない。
 それなのに。
 それなのに、少女の言葉は再び脳の中で重く反芻されていた。

 ◆

 夕方。
 自由の者である猫は今日は外出中らしい。
 自宅で一人、夕飯を食べる。
 食べられないほどではないにしろちょっと味気ない気がした。
 たった二晩の友なのにここまで僕を揺さぶる猫。
 只者じゃないと思った。
 満腹にしたところで寝転がる。
 縁側にはまだ気配はないが飯を置いといた。
 昔白かった天井は既に薄く汚れている。
 それを見ないようにうつ伏せになって目を閉じる。
 誰も――自分以外――いない家。
 そこには入り口出口はあるのに、どこにも逃げ場が無いような牢獄にいる心地がした。
 これが、一人ということだ。
 自分で自分自身の居場所を作らなければならない。
 それが出来ないものは僕のように、自分の殻に閉じこもっているのだろう。
 ふと思う。
 それが一番寂しい、と。
 何も出来ないのではなく、何もしないことが。
 何か出来ることに、何もしないことが。
 猫でさえ、出来るのだ。
 出来ることを。
 生きることを。
 多分、必死で。
 制限されることのない自由の世界で。
 あらゆるものから自由で、だから常にあらゆる危険が潜む世界で。
 不安定なものだけで構成された世界で。
 だけど僕は、まだ、何も出来そうも、ない。
 僕は、弱いのだから。

 ◆

 朝。
 自然と目が覚めた。
 けたたましい目覚ましよりも早く目が覚めたのだ。
 文明の利器に勝てた、と思った。
 縁側を見ると、果たして猫が居た。
「朝帰りか」
 当の本人は幸せそうに眠っている。
「不良猫め」
 一人呟いて空になっていた皿に牛乳を注いで、出かけた。
「行って来ます」
 今日も返事は無かった。
 だけど寂しくは感じなかった。

 ◆

 午前、駅前。
 いつもそこに居るのだろうか。
 場所も服装も違わずに、あの傘の少女はそこに居る。
 今度はすぐ隣を通り抜ける。
「どうして――」
「――どうして僕なんだ」
 その言葉を遮る。
 言っている意味がわからない。
 どうして僕に聴くのかもわからない。
 擦れ違う格好そのままで問答する。
 顔の横に顔があるが決して視線が交わることもない。
 周りから見れば怪しいことこの上ないが、誰もこちらに視線を向けることは無かった。
 まるでここだけ世界が切り離されたように。
 ここだけ風景のように。
 その別次元の中で、彼女は口を開く。
「それは……私を助けた、貴方だからです」
 そして。
 少女は。
 目の前で。
 ――消えた。
 急に喧騒が耳を打った。
 それで初めて、彼女の空間は音が無いことに気付いた。

 ◆

 夕方、家路。
 あの少女を助けた。
 僕が。
 そんなことは身に覚えがない。
 僕はいつも逃げてばかりで誰かを身を挺して守ったり、誰かがためにすることはない。
 人違い、ということもない。
 異分子が――目の前で消えるような異分子が人違いだったら大笑いだ。
 だから違う、と言い切る。
 じゃあ誰かを助けた、というとこれもない。
 「人間」は助けたことがない。
 だったら。
 だったら人間じゃなければ。
 異分子として存在する彼女が、人間じゃなければ。
 僕は家まで走った。
 その答えを知るために。
 確認するために。

 ◆

 夕方、自宅。
 真っ先に庭に回る。
 少しくたびれた感じのするダンボールに彼女は眠っていた。
 茶色と白の毛皮を被った、彼女が。
 叩き起こしても構わない。
 摘み上げて、目の前まで持ってくる。
 猫はちょっと反抗したが、すぐに大人しくなった。
 まるであの少女のように物静かで猫らしい反応もせず、こちらを見つめる。
 その瞳が答えを求めているようで。
 僕は口を開いていた。
「……どうしてだろうな」
 どこに向かった答えなのだろうか。
 その判別も付かないことを呟いて家に静かに収めた。
 彼女はそこで丸くなり欠伸をかいた。
 制限されることのない自由の中で生きるであろう彼女は、少し可哀想だと思った。

 ◆

 夜、寝室。
 寝転がりながら制限されることのない自由を漠然と思った。
 自由に寝て、自由に食べ、自由に動き回り、自由に子孫を残し、自由に喧嘩し、自由に殺され、或いは自由に死に絶える――誰にも見取られること無く。
 規律も秩序もない自由とはそのようなものだ。
 とても不安定で安定することは一度も無い。
 力が正義、という言葉はまさにそのために用意されたものだろう。
 その厳しさ、もの悲しさを感じてしまうといかに自分が温室の中で育ってきたのかが良くわかって、それも悲しかった。
 どんなにあがいても所詮は温室。
 水槽の中にいる一匹だけの熱帯魚のようだ。
 ただ与えられるだけでいる。
 餌を与えられそれを享受し続ける存在。
 他人を知ることもなくただ食べて、糞をして、育つだけ。
 素直に嫌だ、と思った。
 それじゃ嫌なんだ。
 何か変えなきゃ。
 そう思って、眠りの淵に落ちた。

 ◆

 朝。
 大きな欠伸をすると縁側でも同じく大きな欠伸をする猫が居た。
 自然と僕はそいつに向かって微笑んでいた。
 ここまで居ると、完璧に居つくつもりなのだろうか。
 食費という不安要素が脳内を駆け巡り、警笛を響かせる。
 一人じゃないっていうのはそういうことも考える必要がある、と改めて認識した。
 牛乳を注いで出かける。
「行って来ます」
 声こそしなかったものの気配で見送られたような気がした。
 途端、身体が軽くなったような錯覚に陥った。

 ◆

 午前、駅前。
 もはや見慣れてしまった傘は周囲に溶け込み背景と化していた。
 人ごみの中で佇む、傘と少女のオブジェ。
 芸術はからきしダメだが、なんとなく絵になっていると思った。
「どうして助けたんですか」
 四日同じ問い。
 肩は同じライン上にある。
 しかし、顔の向きは正反対の格好で話す。
 傍から見れば擦れ違った瞬間で止まったかのように。
「どうしてだろうな」
 わからない。
「単なる気紛れか親切の押し売りか。それともただ寂しかったのか。なんでかはまだ判らない」
 自分の気持ちがわからない。
「わからないのか、わかりたくないのか。どちらにしてもまだ時間はあります」
 そう言い残して、消えた。

 ◆

 夕方、自宅。
 既に日は落ちようとしている。
 差し込む光は赤みを増し、全体をオレンジ色で包みだす。
 住宅地の中なので落ちるところは見れないけれど、今日の日没はきれいなんだろうと思った。
 僕は縁側で座ってそれを見つめていた。
 隣には猫も居る。
 撫でるでもないし、じゃれ付くこともない。
 ただそこに居ると言うことだけで安心感を生み出す。
 そんな存在が。
 ちょっとしたことで微笑み合えるような存在が。
 僕には嬉しかった。

 ◆

 朝。
 今日は誰も居ない仮住まいの前の皿に牛乳を注いで出かける。
 なんだかこれが習慣となっている。
 あいつはあいつで必死なんだ。
 不安定の中、少しでも揺れが少ないところを探し求めてる。
 崩れにくいところを探している。
 自分ももうちょっと、がんばらないと。
 そう思った。

 ◆

 午前、駅前。
 やはりそこにいた。
 傘を相変わらず差している少女。
 ここまで交わってしまったら、擦れ違うことなど出来ない。
 正面に立つ。
「どうして助けたんですか」
 五日同じ問。
「さあな」
 そっけなく答える。
「分からないのですか」
「昔話をしよう」
 問いを遮るように口を開いた。
「昔々。それは気の遠くなるような昔。僕たちの親の親のそのまた親のずーっと昔の頃。人の手は翼だったんだ。神様がくれた大空を自由に、どこまでも飛んで行ける翼だ。手は無いけど、それほど困ることはなかった。だからこのまま時代が進んだら人は翼を持っていたはずなんだ。だけど、僕らには翼は無くて、大空を自由に飛ぶことも叶わない腕が二本あるだけ。それは昔、翼を持っていた時代のある出来事で翼はなくなったんだよ」
 自分自身の知る答えは、多分ここにあるんじゃないか。
 そう思ったのかどうかは知らないが、この昔話を話している。
 いつごろ聞いたのかも分からない。
 けれど自然と出てくる言葉に懐かしさがあった。
「とても仲のよい、親友と呼べる仲の二人がいたんだ。ある時二人は旅をしていた。片方が旅の途中で大きな怪我してしまった。彼は飛べなくなってしまい、一旦地上に降りたんだ。しかし、怪我はひどく一人では歩けそうもない。怪我していないほうはどうにか連れて行こうとして試行錯誤するんだけど連れていけそうも無い。だから怪我したほうは『お前は行け』と言うんだ。もう片方はそのことに怒って『お前を置いて行けるものか』と言って、友のために一つも役に立たなかった翼の羽をもいでしまうんだ。『友の役に立たない翼なんかいらない。僕等に必要なのは友を、弱った人を助けられるものだ』そういって怪我をした友の肩を担いで二人は歩いて旅を続けた。これを知った神様が、人間には翼は必要ない。もっと大事なものが必要だ。大切なものを支えることが出来るものが必要だ。そう思って僕等に手をくれたんだ」
 話し終わってから気付く。
 多分、この話は昔母さんにしてもらった唯一の話じゃないか。
 確信とも取れるその感情は驚愕をももたらした。
「他人を助けるための手を持っているから。そういうことですか」
 どうだろう。
「多分そう。だけど、理由はそれだけじゃないと思う」
 心のどこかで引っ掛かりを覚えている。
 少しはすっきりしたけど、まだもやもやとしたものが心の中に残る。
「また、明日来るよ」
 そう言って少女が消える前に歩み始めた。
 まだ彼女に話すことはあるはず。
 だから、「また」。
 まだ全ての答えを出してない。
 だから、「また」。
 再び会えることは当然のように思えて、だから言えた言葉だ。
 背後の気配が一瞬にして消えたが振り向くことはしなかった。
 時計が動き出したかのように、周りで音が蘇った。

 ◆

 夕方、家路。
 知らず、夕暮れが見えていた。
 知らず、家路を歩いていた。
 知らず、考えていた。
 わからないのか、わかりたくないのか。
 その答えを探していた。
 ただ、そのまま家には帰りたくなかったので近隣の公園に寄ることにする。

 ◆

 夕方、公園。
 寂れた公園内にオレンジ色の光が充満する。
 さび付いたままの遊具は、自分が子供の時のそのままだ。
 昔、よくここで遊んだな、と思った。
 人気が無いことをいいことに、ブランコに腰を落とす。
 きっ、と軋むような金属音。
 揺らすと、また金属音が鳴る。
 その音で、昔のことを思い出していた。
 この場所での思い出を。
 違う場所での思い出を。
 数年に一度帰ってくるか来ないかの人の思い出を。
 十数年ともに暮らしてきた人との思い出を。
 決して独りになることの無かった思い出を。

 ◆

 夜、自宅。
 どっぷりと日が暮れてから帰宅する。
 縁側には、毛布を引きずり出して大きく寝ているやつが居た。
 なんとなく思って。
「ただいま」
 言ってみた。
 猫は寝返りを打った。
 僕はちょっとだけ微笑んだ。
 ああ。
 ここはもう、一人じゃない。

 ◆

 朝。
 休日ならではの開放感に浸りたいが、そうもいかない。
 猫の世界には休日などはない。
 だから、きっと彼女は今日もいるのだろう。
 僕は適当に朝食を作った。
 そして、青空の下。
 外に出た。
「行って来ます」
 にぃ、と返事が返ってきて嬉しかった。

 ◆

 午前、駅前。
 果たして、そこに彼女は居た。
 休日なのでいつもより酷くごった返す人ごみの中、それでもその傘は目立つ。
「毎日毎日大変だな」
 今日は先に声をかける。
「どうして助けたんですか」
 六日目の問い。
 毎回毎回同じのを問うが、それは彼女にとって大事なことなのだろう。
「一人だったんだ」
 だから、僕は話すことにする。
「両親は僕が生まれてからすぐに海外で仕事、高校までは祖父母に育てられた。両親は盆にも正月にも帰ってくることはほとんど無く今じゃ顔も忘れた。高校一年、離れてすぐに育ての親の祖父母は事故で逝った。両親は何も言わず、帰っても来なかった。初めて一人を実感したのはその時だ。何も信じなくなったのもその時だ。涙を流さなくなったのもその時。笑わなくなったのもその時から」

「似てたんだ。あの日の猫が。死んでもいいような目をして、何もかも諦めた目で。子猫だから、まだ早い。諦めるには早すぎたんだ。だから、せめて生きて欲しかった。自分を見ているようで嫌だった。それに一人は嫌だった。どこまでも静かな家がたまらなく嫌だった。人の気配がない家がいやだった。自分を待ってくれる人が居ない家が嫌だった」

「助けたのは自分が、嫌な自分ばかりが見えていたからだよ。寂しかったからだよ」
 全てを吐き出した。
 何年も前には感情さえ表に出すことさえなかったのに。
 それが今、僕は彼女の前で泣いている。
 なんで泣いているかわからない。
 わからないけど涙が留めなく溢れてくる。
 涙なんてもうないと思った。
 それが押し寄せるように、流れてゆく。
 今までの分を流すように。
「あんたの言うとおり、分かりたくなかったんだ。自分のことが。とても弱くて、惨めで、馬鹿で。必死に隠そうと思ったよ。でも、出来なかった。」

「あんたらのような存在は邪気が無いから、余計に揺さぶるんだよ。心を。だから、隠したくても隠せなかった。隠せなくなったら、分かったのはどうしようもないくらい弱い自分だけだ」

 何を言っているのか、自分でも分からなかった。
 そして感情も同等。
 怒っているのか、悲しいのか、楽しいのか、嫌なのか、嬉しいのか、壊したいのか、自嘲しているのか、罵倒しているのか、どうしているのか。
 どこまでも不安定で、危なっかしくて、そんな精神のバランスを垣間見た。
 ちょうど彼女の不安定さのようだ。
 人間の脆さとか、弱さとか、そういったものだけが見えてくる。
 でも、そういうのは見たくなくて。
 隠したくて。
 分かったらそれさえも出来なくて。
 だから、なにも考えることも出来ずに吐き出すだけ。
「脆くて弱くて危なくて不安定で惨めで馬鹿でどうしようもなくて。そんな認めたくないことばかりが見えるんだよ。強がることも出来なくて、自分がどこに居るかも分からない。そんな気持ちが分かるか」
 本当に、惨めだ。
 何もかも、全部吐き出して、空っぽだ。
 俯いた顔の前に手が見えた。
「手があるのは、人を支えることが出来るから、でしょ」
 ああ、そうだ。
 少女は片手を傘に、もう片手を俺に出している。
 彼女は僕を支えようとしている。
 この手が、僕を支える手なのか。
 僕はその手を静かにとった。
 確かにこの手が、まるで天国への階段のように。
 僕を救う何かに見えたのだ。

 しかし、一つの疑問が心に残る。
 何故、彼女が、人間の姿となったのか。
 僕の内面を見抜けた理由、僕を答えに導く理由。
 それら全てが分からない。
「何故、僕なんだ」
 いつかの問いと同じ文句をぶつける。
「何故分かるんだ」
 それが知りたい。
 少女の少し大きめの瞳を覗き込む。
 少女は身動ぎも視線もそらすことなく口を開く。
「優しさと言うものは一方通行です。向けられた相手は拒否する間もなく相手に直接的に干渉します。だから優しさと言うのは暴力でもあり相手を包むものである諸刃の剣です。
 貴方はその矛先を私へと向けました。相手を傷つけるとか包むとか、そのようなもの無しに。
 それはある種の暴力でした。私は生きることを放棄しようとしていたからです。
 それはある種毛布のようでした。私は暖かさを求めていたからです。
 貴方は言いました。私が死ぬのには早すぎる、と。
 それは間違っています。死には早い遅いはありません。
 貴方は言いました。私の目は生きるのを諦めたそれだと。
 それは間違いです。私の目も生きるのを諦めかけていたのです。
 まるで傷を舐め合うかのように、貴方は私を拾ったのです。
 貴方が私に向けた優しさが分かりますか。
 私の身体を温めてくれた。私に食べ物を与えてくれた。私に一握りの希望も与えてくれた。
 しかし、寝床を用意してもらったとき、ふと思ったのです。
 貴方は私たちの世界から私を優しさで切り離してしまう人ではないか、と。
 その優しさは暴力的で、ひどいものです。
 世界から切り離された者はただ優しさの中で埋没してしまう生命の脱落者です。
 でも、貴方は私と住むことにしました。住む世界が違うのにも関わらず、私に帰るべき家を用意してもらえました。
 そこで私はこう考えました。貴方はその世界に住む者を大事にしていただけなのだと。
 簡単に言えば、貴方は無慈悲に愛情を注ぐ人です。
 弱っていようが元気であろうがお構いなく、ただ手を差し伸べて欲しい人に差し伸べる人です。
 だから、ただ優しさを享受し世界で生きるだけの私より貴方は生を諦めてはいけないのです。
 貴方の言葉で言うなら、貴方には差し伸べられる手があるから、それに気付いてほしかっただけかもしれませんが」
 少女は長く、ゆっくりと言葉を流す。
 それは支離滅裂で、意味も飛び飛びで、何処がどう?がっているのか一瞬では分からない。
 それでも何が言いたいのかも分かった。
 だから一つ一つが僕の心を洗うように響いた。
「でも、なんで人間の姿に」
 問題はそこである。
 限りなく不思議現象が起こっているのだ。
「貴方に貴方のことを教えたい、ただそれだけだったんです。
 私でも不思議です。こうして貴方と喋れるなんて。
 神様が起こした奇跡、とでも言いましょうか。
 猫にも差し伸べられる手はあって、神様は見ていたということですね」
 そこで少女は初めて笑った。
 握った手は暖かく感じた。
 身体は胸の内を出し切りすっきりとしてどことなく清々しい。
 乾いた涙の跡を擦り、情けない顔をどうにか普通にした。
「それでも僕は弱い。人に手を差し伸べることが怖くてたまらないんだ」
 あくまでも自嘲的に話す。
 それは僕の弱さであり、愚かさでもある。
 彼女は知ってか知らずか、こう言う。
「貴方は本当に必要なときに助けられる人ですよ」
 と。
「貴方は弱くてもいいんです。貴方には手があります。それを忘れないで、たまに大空を仰いでみる」

 ――それだけでいいから――

 少女は消えた。
 まるで霧が晴れるかのように。
 握った手からは急速に体温が抜けてゆき、霧散する。
 そして世界に喧騒が、音が戻る。
 頭上は悔しいくらいに青い空。
 両手をそこに突き出す。
 擦れ違う人々が怪しげな視線を向けてくる。
 それでも構わない。
「コレを忘れるな、か」
 視界に収まった両手と大空と少しの雲を見て呟く。
 僕たちの手。
 時には道具となり、時には武器にもなり、時にはやさしく包むものである。
 そして他人に差し伸べることができる手である。
 それは丁度一週間前に拾った彼女に差し出した手と一緒だ。
 あの昔話と同じ使い方をした手。
 まだあの冷たさも、そしてその後の暖かさも覚えている。
 ――弱くてもいいから。
 弱くても誰かに支えられて、誰かを支えて生きていく。
 弱いから手に入るものもある。
 弱いから手に入らないものがある。
 立てないほどに弱った人に差し出せるのは、手だけだから。
 弱った人に差し出されるのは手だけだから。
 だから、ちょっと弱くてもいい。
 それで大切な何かが守れるなら。
 でも、ちょっと強くなりたい。
 それで大事な人の大切なものを守れるから。
 自分が弱くてもいいから。
 自分に手があることを忘れずに、それを弱った人に差し出せることを忘れないこと。
 そして、たまに大空を見て自分を見失わないこと。
 それが、彼女の言いたいことかもしれない。
 だったら――
「忘れられるわけ、ないじゃん」
 いつしかの自分が少し戻った気がした。
 時間はかかるかもしれないけど、人並みであればどうということはない。
 僕には手があるから。
 手を下げ、背筋を伸ばして歩き出す。
 今までと違った景色に見えて新鮮だ。
 そうだ、帰りにコンビニに寄ろう。
 奮発して、おいしい牛乳と猫缶、それにちょっとしたつまみでも買って宴をしよう。
 僕と彼女が出会って丁度一週間。
 それを祝おうじゃないか。
 そうだ、名前をつけてあげないと。
 僕は彼女の名前を考えながら歩いた。
 日差しによって暖められた空気の中を。
 暖かな風に押されて。
 少し明るく見える道を。

 これから歩くのだ。

   終

(C)啓  無断転載、引用はご遠慮願います。