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そして、恋をしていた。
フェルベルト家の次男として育った故にそれなりの自由があったとは言え、捨てても男爵家。
親にとって子供は政略の道具の一つであった。
故に、自由に恋をすることなど言語道断。
恐らくは、どこかの貴族の娘でも貰うか婿入りかの道を辿る事になるだろう。
それを知って、親もとやかくは言わなかった。
制約としがらみ、その中での限定された自由の中でロイツが恋をすることなど有り得るだろうか。
親もそう思ったのだろう。
ロイツ自身もそう思っていた。
だからこそ、それは以外であった。
事の起こりは一週間と二日前に遡る。
小さな地を収める小さな貴族。
それなりに家は大きいが、屋敷と言えるわけでもないそんなところ。
家に門番がいるわけでもないし、若いメイドが住み込みで働くわけでもない。
小さな小さな農村だからだ。
実際には見栄を張って、大きな屋敷が欲しいところ、と父親が零していたがそんな金があるわけでもない。
そもそも、この村を治める必要があるのか、と思うくらいに平和で何もないところなのだ。
だからこそ、金がない。
他の貴族への繋がりもない。
ちょっと異常気象があれば全滅しかねないのだ。
だからこそ、子供を使うしかないと、そういうことは理解していたし、村のためにもそうするしかない。
兄が婿に行ってしまい、自分は同じような境遇の貴族の娘を嫁にもらうつもりでいた。
そんな決意を、崩壊させてしまった。
小さな村の小さな広場には子供が走り回り、小さな畑では小さくなった老人たちが畑を耕す。
男は基本的に出稼ぎをしており、女は内職をしている。
特産物も何もない、本当に危ないところだ。
「あー、ロイの兄ちゃん!」
ロイツの姿を見つけた子供たちは我先とロイツに駆け寄る。
「今日は遊んでくれるの?」
期待に満ちた表情の子供たちに見つめられ、ロイは苦笑して頷くのだった。
「わーい! あのね、今まで鬼ごっこしてたんだ」
「鬼ごっこか、混ぜてくれるの?」
ロイが聞くと、子供たちは一斉に頷いた。
少年から青年へと変わりつつある年齢であるロイとは二倍近く年が離れているが、しかしそれも関係なく鬼ごっこを始めた。
それがいつものことだからだ。
体格差から、ロイが鬼になり村中を駆けずり回る。
と、そこへ一つの馬車が大きな荷物を乗せて村にやってきた。
「おおい、そこの青年」
馬を操っていた、恰幅のいい中年の男がロイを呼び止めた。
整えた髭に、仕立ての良い服。
一目でその男がそれなりの金を持つことを伺わせた。
「何でしょうか?」
馬に近づき、男を見上げる。
小洒落たシルクハットだが、ふくよかな体格と卑しい顔つきには不恰好だ。
「フェルベルト男爵家を探しているのだが」
見下げたような視線が気持ち悪い。
だが、それを表にせず、涼しげにロイが答える。
「我が家に何の用でしょうか?」
我が家、という言葉に反応したのか男は急に馬を下りてロイに一礼をした。
「これはとんだ失礼を。私は行商をしているマーキチャ商会のレンバクでございます。して、貴方様は?」
「私はフェルベルト第二子のロイツ・カンチャです」
「これはこれはご丁寧に」
恭しく頭を下げる双方。
「して、父上殿は屋敷に?」
「はい。ご案内いたしましょう」
「恐縮でございます」
再び恭しく礼をし、馬車を連れて家へと戻っていった。
途中、子供たちを見ると、皆分かっているようで手を振っていた。
「父上、マーキチャ商会の方が見えました」
執政室――と言えば聞こえはいいが、資料が詰まれた書斎である――の戸をノックするとすぐに返事が返ってきた。
「分かった」
「応接室にお連れしましたので、父上もそちらへ」
「ああ」
父親独特の重い声を聞いて、ロイは踵を返した。
この家は小さい。
故にここを管理するにも人手は要らない。
それは母親が死んでからもそうだった。
日替わりで世話をしてくれる老婦人が一人いるくらいだ。
その老婦人に客が来たので茶を出すように言うと、そのまま応接室へ向かった。
客を暇させるようなことは出来ないのだ。
「ただ今父上を呼びましたのですぐに来るでしょう」
「ああ、これはお手数をお掛けしましたな」
「いえ。しかし、マーキチャ商会の――レンバク殿は一体どのような用事で?」
「いつものようにここで店を開かせていただくのと、一つ買っていただきたいものがありましてな」
「ははぁ、マーキチャ商会様には大分お世話になっていますが、いつもはケレッチナ様でいたはずですが」
「ケレッチナですか、今は東方のほうへ仕入れに行っていましてな。手が空いている私が赴いたわけでございます」
「そうですか、道中大変だったでしょう、ご寛ぎ下さい」
「はは、大丈夫ですよ」
そこでドアがノックされお茶が運ばれた。
老婦人はお茶を出すと、すぐに下がってしまった。
「いやぁ、いい茶ですな」
「この地に生えている野草を煮出したものですが、中々でしょう?」
「全くですな」
他愛もない世間話しつつも互いの腹の内を探りあう。
そんな会話にも慣れてしまっていた。
それから数分で父親が部屋に入ってきた。
「遅くなってしまい申し訳ない」
「いえいえ。自己紹介がまだでしたな。私はマーキチャ商会のレンバクと申します。ケレッチナの代理で参りました」
「これはご丁寧に。私はフェルベルト男爵家、当主のサーナチ・ベラミスと申します」
「はは、存じております」
「して、今回の来訪はいつもの出店許可で?」
「は、それもございます」
「となると、別件があるわけですな」
「いかにも。先ほどもご子息様にお話しましたが、是非フェルベルト家に買っていただきたいものがございまして」
「ほほう」
「外の馬車に積んでおりますが、しかしモノがモノだけに運べないのです」
「それほど大きいのか?」
「大きいかといわれればそこそこで、運べなくもありません、が」
「見られたくないもの、か」
「御察しの通りです」
「それはいかなるもので?」
「簡単に申し上げれば、人でございます」
「人?」
「は、最近では王都、中央都市も景気が悪く、身売りが横行してましてな」
「マーキチャ商会が一つ噛んでる、と」
「その通りで」
「しかし、マーキチャ商会は義理と人情を重んじると聞いておりますが?」
「左様でございます。マーキチャ商会としての、行動でございます」
「……ふむ、お話してもらえるでしょうか?」
「は。身売りとはあっても、殆ど出回るのが労働力にもならない女子供でございます。その行き着く先は、奴隷か昌館か……いずれにしても酷い話ではあります。そこでマーキチャ商会は保護に名乗り出たのです。人身市場で人を買い、その人を信頼できる方にお売りする――さすればどの運命よりも楽でございましょう」
「確かに、言わんとすることは分かりました。確かにマーキチャ商会の道理を貫いてはおります。だが、聡明なあなた方には分かっておいでだ。フェルベルト家の財政は、緊迫しております」
「ええ、分かっております。ですから、と言うのも如何なものかとは思いますが、我が商会でも格安で『保護』をしました人を格安でお譲りしたいのです」
「だが、財政が――」
「もちろん、分かっております。ですから、今後数年間は優先的にお付き合いをさせていただきますよ」
切り札を切った。
ロイは父親の隣で話を聞きながら口の中で舌打ちをした。
「……それは確約できるのか?」
「もちろんですとも。なんでしたら血判でもいたしましょうか?」
「いや、結構だ。しかし、値段をお聞きせねば首を縦に振ることはできません」
「そうですね、お値段ですが……700フィルほどですが」
「700フィル!? 足元を見すぎでは? 本当にそれで格安だと?」
父親が驚くのも無理はない。
700フィルもあれば、この村が出稼ぎなしに1年平和に暮らせるのだ。
「いえ、本来ならそのお値段なんですが、その、こちらの仕入れ値がおかしくてですな」
「はぁ」
「銀貨5枚、これでお売りしましょう」
「は、はぁ? 普段の値段とやらから随分大きな開きがあるようで……曰く付なのでしょうか?」
「どうやら不思議な噂がありまして」
「噂?」
「なんとも、買った者は一週間以内に死んでしまうとか。そのせいで市場をたらい回しにされていましてな」
「……」
「しかし、私どもがフェルベルト領に入るまでに一週間と3日かかりましたから、根も葉もない噂でしょう。幸い、市井から離れたここならその噂も入らないようですしな」
「つまり、ここなら『安全』だと」
「その通りで」
「……本当に、『引き取』れば優先的に話をしてくれるのでしょうか?」
「はい、『お買い』になれば、そうしましょう」
「……わかった。その条件を買うのであれば銀貨5枚は安すぎるくらいですしな」
「ありがとうございます」
「それに、いつもの出店を許可しよう」
「はは、重ね重ねありがたく存じ上げます」
「して、その人とは馬車の中で?」
「は」
「よかろう、ロイ、行くぞ」
「はい、父上」
行く、と言われその後を着いていけば予想通りの馬車の前。
久しぶりの行商に村の者が遠巻きに見回していた。
「例のはこの中に」
「ロイ、行きなさい。私は村に伝えてくる」
「はい、父上」
父親の背中を見送ると、先に馬車の荷車に入っていった男の後を追った。
腰ほどまでに詰まれた木箱の間を縫い、男は奥に作られた小さなスペースへ躍り出た。
背中越しにそこを見つめると、果たしてそこにいた。
手足に枷をされ座っている、人の姿。
短く手荒に切られた髪を持ち、一見すると少年に見えるが所々破き裂かれた襤褸の襟口からは若干膨らんだ乳房が見える。
しかし、その体には痣と傷が刻み付けられており、痛々しい状態。
碧の瞳は反抗的に釣り上がり、ロイを睨みつけていた。
「彼女になります」
男が指を指し示し、体を捻りロイが歩いては入れるだけのスペースを作る。
「そうか……まぁ、どうやって家に入れたものかな」
「麻袋を考えはしましたが、何分反抗的で」
「ふむ、そうか。少々お待ちを」
「はぁ、分かりました」
くるりと反転し、ロイは一旦家に戻った。
帰ってくると、その腕に毛布を抱えていた。
「枷は外せますか?」
「はい、いつでも」
「そうですか、それなら今でもいいんですね」
「は、それは構いませんが……」
どうしたのだと呟きつつも、男は素直に枷を外した。
足、手が自由になった途端に手を伸ばして突っ込んできた彼女を毛布で受け止め、その動きを封じる。
あっという間に毛布の簀巻きが出来上がった。
「まぁ、これなら名実ともに保護ですよね」
「左様で」
じたばたともがく少女を毛布ごと抱きかかえ荷車から出る。
その時になって、ようやく違和感に気づく。
「レンバク殿……もしや、この娘は口が――」
「は、その通りでございます。そのため名前も分からず、何を言いたいのかもさっぱりでして」
「はぁ、ま、これで村が安泰なら言うことはないか」
約束の、破格の銀貨5枚を支払うと、男は広場で店の準備を始めた。
ロイはそれを尻目に家の中へと少女を抱いたまま入っていった。
「あー、もう、暴れないでって。乱暴しないから」
言って聞かせるが、その少女はもがき続ける。
その光景を老婦人に見られ、聞かれたが「行商が保護した少女だが、口が聞けなくてさっぱりだ」と嘘ではない真実を伝えておいた。
じたばたと暴れるのを抑えつつ、応接室まで運びいれた。
「はいはい、暴れなさんなって。ほら、毛布が取れないだろ」
子供をあやす様に言い聞かせながら、簀巻き状態の毛布を丁寧にはがす。
「ほら、取れた――ってうあ!!」
体が自由になった途端、少女は再び飛び掛る。
ロイは押し倒され、馬乗りになった少女がその首に両手をかける。
「…………」
が、一向に気道が狭まる気配がない。
「あー、もしかして、力が出ないとか?」
「!!」
倒れたまま話しかけると、今度は飛び上がって応接室から廊下へ続く扉に向かった。
その手がノブを掴む――が、回らない。
「鍵は閉めたよ。予想はしてたからね。まずはちょっとくらい落ち着いてって」
床で打った腰をさすりつつ少女に近づく。
少女は逃げる。
ロイが追う。
逃げる。
追う。
狭い応接室を駆け回り、そして少女は力尽きたのか、それとも諦めたのか、その場にふらふらと座り込んだ。
「うーん、逃げてもいいんだけどさ、ここの周りは何にもないよ? 隣の村でも山を越えないといけないしでさ」
碧の瞳から諦めの色が出てきた。
「まぁ、何もないところだけどさ。ゆっくりしていってね」
ロイが微笑むと、今度は怒りの表情から呆けた顔になる。
「とりあえず、傷の治療とご飯と衣服と体も洗わなきゃだなぁ」
呟きながら応接室の小さな窓から顔を外に出す。
そして眼下にいた子供に向けて大きな声をあげた。
「おーい、レミばあさんとヤード爺さんを呼んできてくれー。怪我の治療をして欲しいんだー」
「わかったー。ちょっと待っててー」
子供はすぐに畑へと駆け出して行った。
「すぐにこの村のお医者さんがくるからね、ちょっと待っててよ」
声をかけるが、まだ呆けたままの顔だ。
とりあえず床に座らせておくのもなんなので椅子へ座らせるために抱き上げた。
「あ、こら暴れるなって。その椅子に座らせるだけだから」
何度か顎を殴られたが、力もなくすぐに脱力して動かなくなってしまった。
「こりゃ、栄養失調かもなぁ。食事が先かな。ま、レミばあさんとヤード爺さんがくるのを待つか」
椅子に座らせ、体を開放してやると、いつの間にか少女は眠っていた。
それから二日が経った。
傷の治療をして、食事をして、体を洗って、服を着せた。
レミばあさんとヤード爺さんは何も聞かなかったが、そのまえに世話役のばあさんに話していたから、ほぼ正確に村中に伝わった。
可哀想な、そして不幸な少女として村に暖かく向かい入れられた。
そこまではある程度予想していた。
が、一つ予想外なことがおこった。
少女に懐かれてしまったのだ。
寝ても覚めても傍を離れようとしない光景に、村からはカルガモみたいと囃され、父親は娘が出来たみたいだと嬉しそうに語っていた。
フェッカ――口が利けないのでその日のうちに暫定的に名前を付けた――はこの村に害はないと見たのか、初日以来は敵意を見せることもなく、あの反抗的な目つきは優しく丸いものへと変わっていた。
それが本来の、彼女の目だと言わんばかりに。
「フェッカ、ちょっとトイレだって」
トイレに立つのに断りを入れても付いてくるフェッカに、可愛さ半分、憎さ半分と言うところ。
だがまぁ、総じて悪いものではないとロイは思っていた。
それから一週間。
ロイツ・フェルベルト・カンチャは悩んでいた。
フェッカにいつの間にか恋をしていた。
そしてそれが、身分違いの恋だと分かってしまったのだ。
その日、何気なくフェッカの教養水準を知ろうと、羊皮紙にペンを持たせたら不可思議なことを書き出したのだ。
『私はエーベル王家第六王女、サクレナ・エーベル・ウィンハーズナーです』
誰がそんなことを予想していただろうか。
まずもって、一週間と二日、それを伝えようとする意思さえなかったのに、だ。
そんなロイの驚きをよそに、フェッカ……いや、サクレナ王女は更に書き綴る。
『利権争いに巻き込まれ、私は殺されるところでした』
『側近の者が私を逃がしてくれましたが、彼も殺され、私は人身売買に掛けられ、売られました』
『逃げ回るために人を殺したこともあります。殺されかけたこともあります』
『時には捕まり、昌館へ飛ばされたこともありました』
『私は生まれながら声を失い、伝えることも出来ず、ここへと売られてきました』
『ですが――』
思わず、走るペンを持つ手を掴んでしまった。
「どうして、どうしてそのような重大なことを、私に教えるのですか? どうして、今になって」
サクレナは小さく微笑みながら、空いている左手で右手を掴んでいる手に重ねた。
それだけで力が抜け、するりとペンが動く。
『サクレナは死にました。フェッカが生まれた、その日にです』
『どうせなら伝えないでおきたかった。けど、もしものことがあった時のために、あなただけには伝えたかったの――ロイ、貴方を好きになってしまったから』
「サクレ――」
すっ、と優しくロイの口がふさがれる。
首を小さく横に振る彼女を見て、言い直した。
「フェッカ、じゃあこれからどうするの?」
『出来ることなら、ここで貴方と静かに暮らしたい。けど、それは無理な話』
そう、無理だ。
もし、フェッカが元王女だとしても、これは無理だ。
利権争いで殺されかけた王女が見つかったとして、平穏に生きられるかと言われればそうでもない。
ロイは嫁を貰っても、婿にはいけないのだ。
かつ、もし王女を貰っても、利権争いからは逃れられない。
かといって、フェッカのままでも結婚は出来ない。
村の存続のため、どこかの貴族か良家から嫁を貰わないとならないのだ。
『好きになった貴方に嘘を吐きたくなかった。どんなに救いようがない事実だとしても、一片の偽りも見せたくなかった。それでも、貴方を苦しめてしまうの』
ああ、フェッカは気づいていたのか。
ロイもまた、フェッカを想っていた事を。
『貴方は村のため、必要な人。だから、私は身を引くわ。私たちのためだけに、こんな優しい場所を犠牲にはしたくない』
「フェッカ……」
書き綴った羊皮紙は3枚になった。
最後の一枚の最後は文字が滲んで見えなくなっている。
どちらのものかもわからない。
ただ、二人は抱き合うことも出来ずに泣き続けた。
ロイは悩んでいる。
足掻くべきか否かを。
もしも二人が一緒になっても村を犠牲にすることがなければ、という理想論にしがみつきたいのだ。
「フェッカ」
自室の窓から覗く月に聞いてみるが返ってくるはずがない。
ここ最近ではフェッカが距離を置き始めた。
それはいずれくる別れへの序曲のようで、身が引き裂かれそうだった。
もう、何がなんだか分からない。
ただ、無性に抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。
だが、それも出来ない。
そうしては、フェッカの覚悟をぶち壊しにしてしまう。
一体、どうすれば……
「ロイ、起きてるのか」
「父さん……」
不意に部屋の戸が開き、父親が姿を現した。
「最近、悩んでいるようだな」
「え、そうかな」
「ああ、そうだとも。……フェッカだろう?」
「……うん」
「物分りのいい子とは、たまに怖くなるな」
「へ?」
「フェッカはお前と一緒になれないと分かり、その覚悟を見せた。じゃあお前はどうする?」
「どうだろうね……わかんないや」
「ここで一つ、大人の答えを教えてやろう」
「うん?」
「フェッカと一緒になりたい、だが、他に妻を迎えなければならない」
「そう、だね」
「なら、フェッカを側室に入れてしまえばいい。言わば愛人だ」
「父さん……それはないよ」
「だがな、そうしてしまえば誰もが不幸にはならない」
「幸せになれないのに?」
「何が誰にとってどう幸せかなんてのはな、誰にも分からないものだ。幸せは振り返るものだからな」
「そういうものなの?」
「そういうものだ」
「で、嫁候補は決まったの?」
「ふ、やはり怖いな」
「何が?」
「いいや、なんでも。辺鄙な田舎でな、選びようも殆どなかったんだが、それでも選び抜いたつもりだ」
「そっか。そろそろ来るんだね?」
「本当、怖いな」
「ごめんね、もう少し察しが悪ければ良かったのに」
「気遣いが上手ければよかったんだ」
二人の皮肉にも、月が笑うことはなかった。
想いは日ごとに募る。
それを実感していたがために、どうしようもなかった。
何も出来ない状態が歯がゆい。
こうして、嫁になるであろう娘と茶を飲んでいてもだ。
当たり障りのない世間話をし、あははおほほと笑う。
その間に親は結婚の準備を整える。
そして数ヵ月後には晴れて夫婦で結婚式だ。
「本当、小さな村ですよね」
「でも、いい所だわ」
腹の内は分からない、分からないが、どうでもいい。
すでに心の中心にフェッカが居てしまった。
「あなたは、このロイツ・カンチャを好きになれますか?」
「今更なことを聞くのね。そんなことは 関 係 な い わ 」
ああ、そうだ。
この娘も、自分と同じ運命を背負っているのだ。
諦めの宿る冷たい瞳。
あの碧の暖かいそれとは比べ物にもならない。
「それでは、愛人を持っても?」
「第一子さえ生ませなければ」
「……強い方だ」
「あら、これでも貴方と同じような辺境育ちですので」
「なるほど、それもそうでしたね。これは失礼をしました」
「いえ、いいわ。しかし、そのようなことを聞かれるとは、もう心に決めた方がいらっしゃるのね」
「……ええ」
「随分と正直な方」
「すみません」
「いえ、いいわ。隠されるよりかはいいですもの」
「お心遣い感謝します」
「それには及びませんわ。一体どんな方なんでしょうね、貴方のお好きになった方って」
「普通の村娘ですよ」
「名前は?」
「……フェッカ」
「そう、いい名前ですわね。やはり、私と結婚した後は愛人に?」
「それは、ないですね」
「何でまた?」
「彼女は僕と村のために身を引きました。それを、引き戻すことはできません。フェッカの覚悟を侮辱しているようなものです」
「それでは、どうするおつもり?」
「どうも、このままですよ」
「はぁ……どうも聡明と言うよりは単に物分りがいいだけですわね」
「よく言われますよ」
「余裕ですわね」
「余裕がないからこそ、ですかね」
自嘲してみたものの、張り付いた空気も表情も動くことはなかった。
月日が流れた。
用意された結婚式を執り行い、用意された娘と夫婦になる。
その前に、一度だけロイはフェッカに会った。
彼らにとって、まともに言葉を交わすのは二週間ぶりのことだった。
「久しぶりだね」
黒い夜の中、小さな黒板を両手で抱えランプ一つを頼りに当てもなく歩き続ける。
『おめでとう』
掠れる様な文字が痛々しい。
「うん……ありがとう」
やがて村から離れた小さな丘まで辿りついた。
星もみえない曇り空だった。
「ここを越えれば、二人で逃げられるよ? どこまでも、いつまでもね」
『笑えませんよ』
やり取りをしながら腰を下ろす。
「冗談じゃないんだけどな」
一欠けらも崩れない表情でじっと黒板を見つめる。
『だったら尚更です』
「だろうね。このまま、フェッカの気持ちは変わらない?」
チョークは動かなかったが、代わりに頭が縦に振られた。
「そっか。それならいいんだ。あと数日もすれば僕たちは別々の人生を辿らなくちゃならない。僕は村を守らなくちゃならないし、フェッカは村を育てなくちゃならない。本当に、別々だ」
こくり、と再び頭を垂れる。
「まぁ、好きだよ、今でも。多分これからも」
言って、一足早く立ち上がる。
「それじゃ、さようなら」
震える肩を無理やりに押さえつけて駆け出した。
ああ、もうやっていられない。
いっそ死んでしまえばいいとさえ思う。
薄暗闇、ランプのないまま走り続け、ベッドに飛び込んだ。
眠りにつけたのは日が昇ってからだった。
次の日、フェッカが居なくなったと村中で探した。
探し回って、見つかったのは山の入り口に置かれた、フェッカ専用の黒板だった。
日焼けした、少し古い木の枠に、消しきれないチョークの粉。
綺麗に書かれた『いってきます』の文字。
誰も言葉をなくし、ただ立ち尽くすだけだった。
ああ、これで終わったのだ。
ロイの瞳が黒く染まり、輝きを灯すことはなかった。
◆
さて、それからのことを話しておこう。
ロイツ・フェルベルト・カンチャ。
彼は結婚後三子を授かり、決して不幸ではないが幸せとも言い切れない日々をすごした。
また、父親と同じように妻に先立たれる。
フェッカ。元エーベル王家第六王女、サクレナ・エーベル・ウィンハーズナー。
最後の諦めをつけるため、覚悟して村を去る。
口の利けない少女は、それでも努力と期待で王都まで辿り着く。
が、再び街のゴロツキに捕まり、犯され、昌館送りにされる。
それから、再び人身売買に出される。
あれから何年経ったのか。
顔に皺が刻まれ、白髪と髭が似合うようになった。
子供と孫に囲まれ、自然豊かな村で、このまま死ねるのだろうか。
心残りは数あるが……この年老いた身体で何が出来ようか。
「父さん、たまには旅行でもしたらどうだい?」
息子の一声。
それが決め手だ。
それから一ヶ月もしないうちに、私は王都に立っていた。
この先老いては何も出来ない。
ただ、あの娘のいたこの場所を見たかっただけだ。
サクレナ・エーベル・ウィンハーズナー、或いはフェッカ。
どちらでもいい。
どうでもいい心残りだ。
この年まで生きているのも、なかなかないだろう。
クイーン・サクレナ。
銘打った掲示板を見つめた。
なかなかないが、たまにあるから、それはそれで奇跡だ。
「……女王とは、随分と逞しいことだ」
「父さん?」
「ああ、何でもない」
ごみごみとした街中。
若い娘の客引きや、浮浪者が吹き溜まりのように存在する。
それでも、まぁ、それだとしてもだ。
この場所は綺麗に見えたのだ。
(C)啓 無断転載、引用はご遠慮願います。