[電車]

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 天気予報では四日連続の真夏日と言っていた。
 今日も暑くなるのだな、そう思いながら家を出たのは午前六時を少し回った程度。
 まとわり付く湿気だけが不愉快な朝だった。

 JR両毛線。
 栃木県から群馬県へと伸びるその線は、一部単線区間のために、そしてホームの長さが足りないためにダイアの間隔が大きく、そして四両しかなかった。
 始発駅には発車待ちのために長い時で約三十分も止まってくれる。
 学生が多く乗る電車のために車内が騒がしくなりがちで、それが嫌で私は早い電車に乗ることにしている。
 六時台の電車は後のようにぎゅうぎゅうに詰められる事もない。
 馬鹿みたいな大声で喋る輩もいない。
 それはそれは、非常に快適だった。
 いつもとほぼ同じ時間にホームに到着し、いつもと同じ前から三両目、一番後ろのドアに入って反対側のドアの右手にある端の座席に座る。
 発車までまだ二十分強を残している車内は閑散としていて、別のホームで発着する電車がうるさいくらいだ。
 鞄を足元に下ろし、中から厚い単行本を一つ取り出す。
 何となく家にあった父親の蔵書から借りた、暇つぶしの一品だった。
 昨日とは違う本――それはここで落としてしまったようだった。
 遺失物として聞いてみたが、どうやらなかったようで、昨日の私は少し落ち込んだ。
 数百円の単行本とはいえ、続きが気になるがそのために再び買う気にはならないからだ。
 私がそれを読み始めてから暫くして、ようやく車内のエアコンが掛かりだす。
 重いはずなのにどこか軽快な振動を感じつつ、私はページをめくり続ける。

 ――お父さん、いい本読むじゃないか。

 私が父親を尊敬しなおしつつ、意気揚々とページを更にめくる。
 純文学よりはエンターテイメントを求める父親の蔵書は、基本的に外れがない。
 これだから父親は侮れない。
 暫くして乗員が増え始めた。
 乗り換え電車が少し前に到着したのだろう。
 座席の殆どが埋まり始めていた。
 車内にはちらほらと吊革に捕まる人も見受けられる。
 私の隣には一人分の隙間があったので、誰が来てもいいように気持ち端に寄るように佇まいを正した。
 丁度ページ終わりから三行目あたりだろうか、一人分の隙間があるのにも関わらず私の前に立つ人がいた。
 本から若干視線をずらすと、私と同じように短いスカートがひらついていた。
(隣空いているのに……)
 私が思うと同時だ。
「あのー」
 頭に声が降ってくる。
 同時にこつこつと頭が突かれる感触。
 いきなり失礼な――そう思いながら訝り気に首を起こした。
 スプレーを塗ったような黒すぎる髪。
 整えすぎで細くなりすぎた眉。
 ナチュラルメイクを知らないような化粧。
 目立たないような私とは正反対のような人だった。
 羽織る夏用の制服は私とは違う、赤の他人様だった。
「これ、昨日落としましたよ」
 その外見とは違う丁寧な言葉遣い。
 彼女が鞄から出した本はまさに昨日私がここで落としたものに違いなかった。
「あ、ありがとうございます」
 慌てて受け取り礼を述べる。
「いえいえ」
 本が持ち主に渡ると彼女は天真爛漫と言うに相応しい笑顔を浮かべた。
 何だろう、とっつきにくい外見なのにどこか親しみやすい。
「隣、いいかな?」
 頷くと、やっと空いていたスペースに腰を下ろした。
 座っていて気付かなかったが、彼女は私よりも身長が低かった。
「本、好きなの?」
 親しげに会話が振られる。
 まるで旧来の友人のように。
「あー、好き、かな?」
 暇つぶしのために惰性で読んでいるようなものだ。
 そこまで伝えると彼女はまた笑った。
「私も結構読むんだ。今何読んでるの?」
 ガタン、と電車が大きく揺れた。
「今はね――」
 指でしおりを作り表紙を見せる。
 カタン、カタンと電車が動き出した。
 私と、私のささやかな朝の友人を乗せて。

(C)啓  無断転載、引用はご遠慮願います。