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尚、この作品は長いので分割しています。
さて、その答えは、知らない。と、自答。
「何やってるんだか……」
一人ごちる。本当に、何でだかここに来てしまったのか。
あまり行く事のない駅前で、一人立つ。繁華街があるこの駅は、学校と反対方向にあるので本当に使わない。最後に来たのは……浩平に連れられたときだろうか。どちらにしろ、記憶がおぼろげになるほどというものだ。
立ち並ぶ背の高いビルに囲まれて、どうしてだか居心地が悪い。普段から見ないせいもあるだろうが、それでもどこか拒絶したい気持ちがある。
まあ、僕は田舎者、と言うことだろうか。
する事もなくただ突っ立っているのは本当に暇でもどかしい。この時間を何かで満たせたら、とは思うがさしてする事がない。喉が渇いているわけでもなく、小腹が空いたわけでもない。携帯を開いたところで、メールを送る相手もいなければ、必要とする情報もない。
脇を見れば、営業のサラリーマンだろうか、タバコを吸っている人がいた。あれはあれで、時間を潰すには持ってこいの物だろう。でも、僕は未成年者だし、そもそも煙草を吸いたいとは思わない。煙を吸って何がいいのだろうか、と言っては喫煙者の反感を買うだろうか。
仕方なく、人間観察で時間を潰すことにする。規定の時間まで、あと十分もある。早く着きすぎた、とは思うがそれが性分なのだから仕方ない。
そして、観察対象が三人目になったところで待ち人は来た。
「あ、れ」
その人は酷く驚いたような、弱弱しい声を出した。
「……やあ」
どんな挨拶するかで迷って、二文字になった。不甲斐ない事この上ない。
「う、うん。こんにちは」
対して彼女は律儀に挨拶をしてくれる。ああ、そうだ。直井さんはこういう人だったっけ。
「あれ、どうして後藤君が?」
「いや、須藤さんにこれ渡されて」
財布の中で折りたたまれていた紙切れを出す。
「これって、あれ、どうして?」
直井さんも財布の中から僕と同じ紙切れを出した。
「まあ、こういうこと、らしい」
「うう、良く分からないよ」
「変な気、回されたわけ」
「う、うん。でも、私、ここにいるのが理ちゃんだと思ってたのに」
どうやら、サプライズだったらしい。僕はと言えば、これを渡された昨日の内に集合場所と時間だけが書かれたメールを受け取っていた。これまでの経緯を考えれば、自ずとどんな事になってるのかは想像が付く。
「ま、行ってみようか」
「うん、もったいないし、それに」
「行かなきゃ須藤さん、怒るしね」
「そうだね」
僕達は歩き出した。お互いの財布にお互いの映画のチケットを仕舞って。
あの時のように自然じゃないし、何処となく溝を感じつつも。その距離は僕自身が生み出したのだから。だから、その溝を埋めるのも僕でなければならない。
そんな気がした。
「やっぱり、上映時間まで結構あるね」
映画館、と言ってもアーケードの一角にあるような映画館だ。上映プログラムを前に二人で立ち尽くしていた。
「うーん、どうする?」
「折角ここまで来たし……ちょっと買い物したいな」
「うん」
これは、デートではない。ただの、友達同士の遊びだ。例えば、歩いていても半歩分開いた距離とか、常に僕の一方後ろを歩くこととか。そんなことで分かってしまう。
僕らの会話が戻ったところで、それはなんら縮むことは、ない。
「あ、そろそろ時間だ」
「え?」
「ほら、もうすぐ入場開始時刻になる」
「本当だ」
突きつけた携帯の画面で現状を把握する。
「それじゃ、行こうか」
「うん」
僕らはやっぱり変わる事のない距離のまま映画館を目指した。
僕らが観るのは何の変哲もない恋愛映画。これ以上ないくらいに退屈な映画だ。一人の男と女が出会って、恋に落ちて、障害が出来て、それを乗り越えて、最後に結ばれて大団円。
内容は多少違いが生じるだろうが、大方の恋愛映画の構図はそうだ。結局、最後まで観ても、それはこの枠組みから外れる事のない、非常に教科書どおりの内容だった。
世間ではそれを純愛とか言うのだろう。だが、一体その定義が何処から出てくるのが疑問で仕方ない。
それは僕が全くの恋愛経験をしていないからか、それとも捻くれているのか。どちらにしろ、僕は上映中に欠伸を噛み殺すので精一杯だった。
「うーん」
映画館から出て大きな伸びを一つ。ずっと座り続けていたので筋肉が堅くなっている。一歩後ろを見れば、直井さんも同じように腕を伸ばしていた。
「ねぇ、後藤君はどうだった?」
「映画?」
「うん」
「僕は……」
正直に答えようか迷う。が、嘘を吐くのは苦手なので結局素直に感想を口にした。
「つまらなかった、かな」
「やっぱり?」
「って言うと、直井さんも?」
「うん、なんかね、やっぱりああ言うのはつまらないかなぁ。私女の子なのに笑っちゃうよね。恋愛映画がつまらないって」
「いいんじゃない? 感じ方は人それぞれだし」
脇から出てくるカップルの女のほうが薄ら涙を浮かべながらこちらを睨むのが見えた。まあ、関係ないことだ。
「あれで泣ける理由が分からないんだよね、僕」
「うんうん。どうしてあれが泣ける映画なんだろうね」
観客の約半分ほどが泣いた映画の後で、明るくつまらなかったと言い合う僕らはさぞ異端だろう。先ほどの女以外にも突き刺さる視線をいくつも感じた。
「まあ、あれならドキュメンタリーの方がよっぽど泣けるし」
「分かる分かる。でも、私はどちらかと言うとコメディーの方がいいかなぁ。映画館まで来て泣きたいとは思わないし」
「ああ、それは分かるなぁ」
「泣ける、と言うのを前面に出してるのも考え物だよね」
「泣けると感動はイコールで繋がるわけじゃないからね」
「理ちゃんに悪いけど、退屈な二時間だったー」
「まぁ、幸い昼過ぎだし、何か食べてからどこか行く?」
「そうしよ」
僕らは、黙っていた二時間分の会話を取り戻すように、矢継ぎ早に話をしながら映画館を出た。
適当な店で少し遅めの昼食を摂っていざ繁華街へ。と言っても、僕は繁華街に来る事は殆どなかったし、直井さんも同様な様で、二人して観光気分で繁華街を歩き通した。
通りに沿ったアーケードや、駅前に立つ大手デパート、駅ビルを回ったが、これと言って面白い物を見つける事は出来なかった。しかし、何かを見つけては一喜一憂する直井さんを見てるのはなかなか面白かった。
日が大分傾いてきたけど、まだ夕暮れには早い。駅ビルを出たところで行くところを見失った僕達は、その足が自然と駅構内へと向いていた。
「殆ど見て回っちゃったね」
「そうだね」
「これからどうしよっか。って、私は歩き続けてたし、腰を落ち着けたいな」
「同感。それじゃ適当な店に入ろうか」
「うん」
そうして始めた喫茶店巡りだったが、僕は休日を甘く見ていた。人の集まる繁華街、骨を休めるにはとてもいい時間、と言うことでどこの店も殆ど満員状態だった。
「運を天に見放されてるような気がする……」
「ま、まあ座れたから、ね」
結局僕達は駅前プロムナードに設置されていたベンチで休憩を取っていた。
回りを見ても人人人。窒息しそうな街だ。運よく空いていたベンチがあったものの、その他は全部埋まっているという状況。見ているだけで疲れそうだ。
「今気付いたんだけど」
「うん?」
「僕って、こういう人込み苦手みたい」
「私も分かるよ」
「なんか、違うのかな。こう、いっぱいいる人を見てると、どうして自分がここにいるのか分からなくなる」
「どういうこと?」
「なんて言ったらいいのかな。みんな何がしか理由があって、ここに来るわけでしょ。そう思うと、僕がここにいるのが異端分子の様に思えてきて」
「その言い方だと、まるで後藤君が理由もなくここに来てるように聞こえるんだけど」
「まあ、否定はしないけど。気が付いたらここにいた、って感じで、何か理由が見つからなくて」
「理ちゃんに言われたからじゃ?」
「うーん、それは弱いんだよね。結局さ、言われたからって、するしないの選択権は僕にあるわけでしょ。だから、どうして僕はここに来ようって思ったのかなって」
「うーん、まあ、大丈夫、だと思うよ」
「どうして?」
「結局ね、後藤君は来てるわけで、それに理由なんて必要ないと思うけど」
「なんかそれって、本能みたいな言い方だね」
「どうあれ、後藤君の身体はここに来ようとして来てるわけ。それに理由は後からいくらでも付けられるって誰かが言ってたよ」
「でも、なんかそういうの、気持ち悪いなぁ」
「後藤君は完璧主義者か潔癖症?」
「んー、違う、と思う」
「曖昧だね」
「自分の事が一番分かってないのが自分、なんて言葉もあるわけで、急にそれを思い出した」
「うん」
「あー、言っておいて自己完結してた」
「もしかして、私、必要なかった?」
「いやいや、考える材料貰ったし、言い方悪いけど、十分役に立ったよ」
「ありがと」
「ま、これも思春期に起きる典型的なものかな」
「……後藤君って、たまに同い年なのか分からなくなるよ」
「育ちが普通の人とはちょっと違うだけだよ」
「どういうこと?」
「あれ、昔話さなかった……かな。僕が一人の友達もいないで高校まできたって話」
「聞いたことなかったけど、うん、そう言えばそうだね。高校でも友達って言ったら、浩平君くらいだもんね」
「それが、人生初めての友達だなんて、人生のレール踏み外してる気がする」
「……ま、まあ、人それぞれだよ」
「結局論点というか、話が飛びすぎたかな」
「うん? 私は別にいいと思うけど」
「そう?」
「結局、話なんてそんなものだよ」
「そうかな」
「そういうものだって。順序立てて話すなんて、議論じゃないんだから」
「う、ん」
どこか釈然としないが、頷いた。やっぱり、筋道立てて話すのがいいのではないだろうか。それが会話として有るべき姿なのではないだろうか。
そうは思っても、何故か口に出来ない。
「日が暮れ始めたね……帰ろうか?」
「うん」
ただ、僕は頷いて、彼女の後ろを歩いた。三歩後ろから見つめる彼女の背中は新鮮で、それでも形容詞難い不安感を僕に募らせた。手を伸ばしても届かない距離。たったの三歩が果てしなく感じられた。
ああ、僕から歩み寄らなければ。そう思っていたのに。僕の歩幅は変わる事はなかった。
半人分空けた座る座席。子守唄を奏でるように揺れる電車の中。斜陽が眩しくて、窓から目を逸らす。
なんら興味を誘うことのない中吊り広告。文字を目で追ったところで意味はない。それを理解するところまで、僕の思考は使われていないのだから。
聞きなれた車内放送を聴いて立ち上がる。
「あれ、後藤君?」
「ん、ちょっと寄りたいところが出来た」
「あ、待って。私も行く」
直井さんの声を背中で受け止めつつ、僕は開かれるであろうドアの前でその時を待った。
「寄るところって、いつものお店でしょ?」
「うん」
僕はいつもの駅、いつもの道を辿る。何時か二人で通った道。いつしか、二人で通らなくなった道。
誰かいるかと思ったが、店はがらんどうで、マスターがコーヒードリッパーを掃除していた。
「いらっしゃいませ」
僕だと確認するや否や、無言で掃除したてのドリッパーを稼動させる。まったく、マスターには感謝するばかりだ。
「いつもの席でいいかな」
「ええ」
客がいないのだから、聞く事もないのだが一応聞いておいた。路地に面したこの店には茜刺す太陽はその光を間接的に届けるばかりで、若干ちらつく蛍光灯が天井から店内を照らしていた。
「あ、私もいつもので」
「ええ」
直井さんは遅れて注文してから、僕の対面に座る。懐かしい配置だった。
「やっぱり、ここが一番落ち着くよね」
「うん、そうだね」
それだけ返して、後は無言。僕らは人通りの少ない通りをただ見つめるだけだった。
「……」
それからしばらくして、マスターは注文の品をテーブルに置いてからカウンターの奥へと引っ込んでしまった。
「ここのコーヒーの味って、変わらないね」
「そう、だね」
僕は返事をすることしか出来ない。
ああ、本当に分からない。どうしてここに着たのか。どうして返事だけしか出来ないのか。息が詰まるようだ。
「ね、後藤君」
ちらりとマスターを見やり、それから彼女は静かに話しだした。
「どうして、こうなっちゃったのかなぁ」
明るく言ってるのに、その顔を直視する事が出来ない。多分、彼女は、悲しい顔をしてると思うから。
「……うん」
ただ、頷いて、カップを揺らすことしか出来ない。本当に、不甲斐ない。
「私がダメだったのかな」
「……」
そんな事ない。心の中で言う。
「分からない事って、こんなに苦しいんだね」
同感。もう、僕は何もかもが分からない。どうしてこんな事になってるのかとか、どうしてこうしているのかとか、どうしてここにいるのかとか。
本当、分からない事だらけだ。
「何も、言ってくれないんだね」
それきり、彼女は黙ってコーヒーを啜り始めた。
僕はと言えば、息苦しくて飲む事も出来ず、ただ黒い水を回すだけだった。
日が沈み、夜の帳が落ちて、暗闇が世界を支配する。店内の明かりは蛍光灯と、所々に置かれたインテリアランプだけだ。
僕達はやっぱり無言で、直井さんはカップの中が空になっても窓の外を見続けていた。
待ってる、そう分かっていても言葉は出てこない。何か言わなければ、と思うも何故か思い出すのは昔の事ばかりだ。
例えば、彼女が初めてここに来た時の事、ここに通い始めた事、、何でもない会話もしないでただ外を見ていたときの事。
ああ、そうか。今の状況と変わらないのか。ただ、彼女が僕の言葉を待っている以外は。
浩平は子供が欲しいかどうかと言った。
須藤さんは抱けるか否かと言った。
直井さんは、本能と言った。
三人の言わんとする事は結局一緒で、どれも僕の経験のなさが原因だ。
僕に友達がいなかったこと。恋愛経験どころか、人を好きになると言うことがなかったこと。
自分で考えろと浩平は言った。
友達だから、という答えで須藤さんは納得した。
彼女は……なんて言ったのか。
「うん。でもね、こう思ったの。出来たら本気、出来なかったらそうじゃないって」
ああ、そう言うことか。
「手を繋ぐのだって、キスだって、抱きしめるのだって、結局そこまでの通過点でしかない。もしそこまでいけなければ、そりゃただの勘違いだ」
それはそうだ。
「『友達だから』その言葉だけでいいわ」
ああ、もう。
こんな不甲斐ない僕のために出来る限りの事をしてくれた、僕が愛すべき馬鹿達に感謝だな。本当、手段を選ばない辺り。
そしてそうでもしない限り気付かない僕は大馬鹿だったのか。
「考えたら」
必要なのは最初の一言。
目の前の人は教えてくれた。
「僕は何も知らなかったんだ」
茶色い髪の毛の悪友は極論を言ってくれた。
「友達とか、恋人とか」
悪戯な笑みが似合う友人が教えてくれた。
「だから、これから言うことが間違っているかもしれないし、直井さんを傷つけるかもしれない」
「うん。いいよ」
寛大な言葉。本当、僕は良い人に巡り会い過ぎたのかもしれない。だから気付けなかったのかもしれない。
それは、ただの逃避なのだけれど。
「正直に言って、僕はやっぱり君が好きかどうかは、分からない」
「うん。告白した日に言ったね」
「『これから好きになる事は出来る』なんて言ったけど、その好きなんて感情が一切分からない」
「うん」
「答えが出ないまま、直井さんと一緒に居るのが嫌になった。好きなんていう感情が分からないまま一緒にいるのが苦痛になった」
「どうして?」
「なんか、嘘を付いているような気がして」
「だったら、そう言ってくれればいいのに」
「うん。そうだったね。けど、僕は離れる事で嘘を付く事から逃れようとした」
「そう、だったんだ」
「だから、ごめん」
「どうして謝るの?」
「どうしてかな。謝りたくなった」
「そうなんだ」
「……怒らないの?」
「どうして?」
「結局、自分のために直井さんから離れて、それでも今こうしているから」
「それが、怒る事なの?」
「……さあ。僕はこういう経験も知識も一切ないから分からない」
「そっか。じゃあ、覚えておいて」
「うん?」
「後藤君が話してくれるのを、ずっと待っていた馬鹿な女がここにいる事を」
「……敵わないな」
「言ったでしょ。私達は似ているって。きっと、私から離れたとしても、後藤君は怒ることなく待ってくれると思う」
「……どうだろうね。でも、そんな気がする」
「でしょ。だから、いいの」
「うん、ありがとう」
「また、どうして感謝されるの」
「僕の言葉を待ってくれた事と、許してくれることを」
「うーん、感謝されること、かな」
「とりあえず、言いたかったから」
「そっか。うん」
「まあ、そう言うわけで」
「ね、後藤君」
「な、なに?」
「私のことどう思う、って聞いたら卑怯かな」
「……ううん」
「じゃあ、答えて」
「えっと……」
「告白できないっていうことは、それまでの気持ち。明確な一線があるってこと。自分の感情が、その一線を越えられるか。それも告白の一つじゃない?」
ああ、本当に自分で言っておいてなんだけど、分からない。けど、まあ、言わなければ始まらない事だってある。
「なんなんだろ」
結局、分からない。
自分の気持ちなんて、分かるわけがない。分からないから、こうなっているのだ。
「良く分からないなぁ」
「うーん、私の事嫌い?」
「いやいや、それはありえない」
「それじゃあ、うーん……」
直井さんは考え込んでしまった。
本来は僕が考えるべき物なのに、と自分を情けなく思う。だが、情けないほど、僕は未熟なのは事実だった。
「……自分で考えて見るよ」
一向に口を閉ざしたままの直井さんを見て言った。
僕は、今まであの二人から気付くための、知るためのきっかけを貰っていたはず。教える事の出来ないものだから。だから、僕は自分自身で気付かないといけない。
それでも、直井さんの言葉をステップにしてしまう。どんなに自分で考えようとしたところで、彼女達の影響力は計り知れない。
結局、そういうものなのだ。
答えはとびっきりシンプル。あの二人は生物学、生理学的に言ってくれた。理屈は分かる。つまるところ、人間はそういう生き物なのだから。
だけど、と頭の中でその接続詞が離れない。僕には心があって、様々な事を考えることが出来るから。
いっそ、機械なら何も考えずに済むのに――つまりは、本能のみで生きていけたら。そうしろとプログラムされて、それを実行することが出来るなら。
こんな簡単な事はない。
ずっと、そんなことを考えると、理性の存在が危うくなる。結局、本能とは何か。理性とは何か。思考は哲学の分野にまで発散する。
表と裏。相反する存在があるから、それが存在すると言う理論。本能が有るなら理性がある。裏を返せば、どちらかがなければもう片方もない。強固に見えつつも、一旦崩れれば跡形もなくなる諸刃の論。
何かで読んだが、人間は中間を考えることが出来る、らしい。
例えば、機械は0と1でしか判断出来ない。善と悪。生と死。勝ちと負け。
ところが、人間は違う。小数があったり、必要悪、半死半生、試合で勝って勝負に負けた。色々な表現がある。
人間がその極端なところに依存しないという、性質の表れだろうか。
……それを考えて何になるのか。僕の気持ちの答えが出るのか。自問しても返事はない。
思考はどんどん発散して、収束を知らない。
中間を認めて、曖昧にするのが人間の特徴。そして、最後にうやむやにする。そう、それが人間のあり方ではないか。
何かに固執しても、結局ほどほどに落ち着いてしまわないだろうか。
人間は感動を覚え、慣れる生き物だ。それは間違いないだろう。
どんなに最上の物を得たところで、その最初の感動は忘れてしまい、慣れてしまう。最後は無感動にその最上を得続ける事になる。
そして、最上よりもそれより下の物が欲しくなってしまう。
僕がどんなに大好きで美味しい物を毎日三食食べ続けたとする。最初は嬉しさしかないだろう。だが、次第にそれに感動を覚えなくなる。
それが、飽きるということだ。
美味しい物に飽きた僕は、きっとそれよりも下の食べ物に手を出す。ああ、こんな味だったと半ば感動交じりにその味を楽しむだろう。
感動に慣れたら飽きてしまう。それが人間のサイクル。
だが、人間には技術がある。現状に慣れてしまったら、更なる高みを目指す。更なる最上を求めて。
もし、僕が料理家だったなら、さらに美味しい物を自作するだろう。それに慣れたら、また更に上を目指す。そうして、人間は発展し続けてきた。
思考がまとまらない。何を考えていたのかと思うほど、かけ離れたところに飛ぶ。
僕は何を考えていたのか。
――直井さんへの気持ちだ。
他人なのか、知人なのか、友人なのか。それともまだ知らない、好きと言う感情なのか。少なくとも、今は他人、知人とは考えられないし、そうとして接している気は全くない。
残るは、友人か、それ以上か。友人と言えば、浩平だ。しかし、今回は同性と言う事で退席願おう。
比較対象になるのは、須藤さんだ。彼女は友達だ。それは紛れもない事実。あっちがどう思うが、僕はそう思っている。昨日自分で言ったばかりなのだから。
対して直井さんはどうだろうか。一時期、恋人ごっこのような事をして、離れて、最近になって話すようになった。
僕はどう思っている?
友人、だろうか。確かに友人以上の気持ちはある。だが、その以上が曲者だ。
僕は自分のビーカーの容量を知らないのだ。どんな量の水を入れたら溢れてしまうのかも知らない。だから、まずそれを知るのがいいかもしれない。
それじゃあ、どうやって容量を計るか。一々計量して水を注ぎ込む、なんて出来ない。僕に計量カップも計りもないのだ。
シンプルに、シンプルに。自分に言い聞かせる。
結局、知りたいのは漏れるか否か。だったら、バケツ一杯の水を入れればいい。それで漏れるか否かが分かる。バケツがなければ、風呂桶でもいい。
とにかく、僕の気持ちを入れなければ始まらない。
比較するなら、同じ状況を準備しなければならない。何か同じ事を行う、行わせる。
ふと、あの二人の顔が過ぎる。全く、このための布石と思えてしまえて仕方がない。自己矛盾が起こるだろうが、仕方がない。人間はそうやって妥協する面も有るのだから。
あの時は否定したけど、今なら分かる。心の中で茶髪の友人に謝った。悪戯な笑みが似合う友人に謝った。全く、僕は不甲斐ないだらけなようだ。
結局、やることは一つに収束する。
僕は須藤さんを拒絶した。それは、友達だと思ってて、それ以上はないと思っていたからだ。
それなら、直井さんはどうだろう。僕は拒絶するのか、受け入れるのか、それとも喜々として自ら牙を剥くのか。
いや、まず直井さんならあんな状況を造らないだろう。もし、そんなことがあれば、それは直井さんがなにか思い詰めているとしか考えられない。一年も一緒にいなかった僕だけど、確信できる。
それでも、強引に置き換える。
例えば、僕ならどんなことがあればそんな事になるだろうか。僕達は似ている、と彼女が言ったのだ。僕がそうなれば、彼女もなるのだろう。そう推測して思考を加速する。
だが、その加速は意味なく終わった。様々な事を考えた。考えて考えて考えた。頭の中で幾つものパターンを造った。けれど、結局答えは一つだ。
僕がそんなことをするのは、自暴自棄ぐらいだ。
もし、彼女が自暴自棄でそんなことしてきたら、どうだろう。まずは止めさせて、それから話を聞いて、一緒になって考える。多分、それが僕のする行動だろう。
だが、それを逆に須藤さんに当てはめて見る。すると、僕も同じ事をするだろう。いや、した。あの時の須藤さんは、半ば自棄のような気がするのだ。
それでは、直井さんの自棄になってまでする理由で納得したらどうする。須藤さんとなら、確実にしていない。友達だから。そんな事は出来ない。
直井さんはどうだ。納得して、僕は出来るのか。
……出来ないだろうな。出来ることなら、そういう状況ではしたくない。
「……ああ、そうか」
自分で答えが出た瞬間だった。
「答え、出たの?」
窓の外から僕に視線を向ける。時刻を確認していないが、長い時間悩んでいたと思う。
「うん、一応」
答えは出た。ただ、その伝え方に迷う。僕の考えた事、答えに到ったまでの経緯。それは口にするには憚れる内容だ。
「それじゃ、聞かせて」
「……何て言うかな、その……」
「どうしたの?」
「何か、言いにくくて」
「いいよ、簡単で。YESかNOか」
優しく微笑む。全てを許す聖母のような、そんな優しさだった。
もしくは、全て分かっているような、小さな子供を諭す母親のような優しさだった。
直井さんには敵わない、そう思った瞬間だった。
「答えは、YES」
だから、隠しもテレも恥も外聞も何も関係無く、すっと流れるように言葉が出た。
「そっか……うん、そっか」
直井さんは頬を少しだけ緩まませて二度頷いた。
「ありがとう」
しまりのない顔つきで、お礼を言われた。
終
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